ベルギーと私

【9月8日~19日に開催されている「シャイン・ウィークス 」にあわせて、ベルギーで活躍されている日本人女性のお一人、バイオリニストの堀米ゆず子氏から、「シャイン・ウィークス」への応援を込めた寄稿をいただきました。】

ベルギーと私

堀米ゆず子
バイオリニスト
ブリュッセル王立音楽院教授

1980年4月28日まだ肌寒いようなブリュッセルにやってきた。エリザベートコンクールを受けるためだ。日本では春爛漫なこの時期にまだコートの襟を立てて歩いている人たち・・・なんだか灰色な国だなあ・・と最初の印象は暗かった。
たどり着いたrue de la valle、ドリマエル家の屋根裏部屋は窓から見える景色、以前からあこがれていた屋根裏の風景をもってしても、その後9年間に及ぶ私の居場所[pieds‐à‐terre]となるとは誰が想像しえただろうか!

外国に出たのは2度目の事だった。1978年7月にロンドンのカールフレッシュコンクールを受けてみたのだが見事に落選。父の死期にもあたっていた。父は8月に亡くなった。
エリザベートコンクールに関しては「最悪を想定して練習する。私にできることをすべてやろう」といういわば自分への挑戦だった。大学をその春に卒業したばかりの22歳。
第一次予選を通っただけでロンドンでの雪辱は果たしたわけで第二次通過、本選前のチャペルに閉じこもっての新作練習の際は「よく休んでくださいね」というチャペル寮母の言葉が身に染みた。本選を金曜日に弾き、土曜日深夜の順位発表時「日本では順位は後ろから発表される」と思っていた。それにしてはみんなの大歓声と審査員のあふれるばかりの笑顔に「ウズコ・ホリゴム」と名前を呼ばれステージに押し出された。
初めて「優勝」ということになったと気が付いた。5月末の事だ。

それからは怒涛のような「ソリスト生活」が始まった。全く予想していなかった事だ。
当時指揮者の小澤征爾さんに「みんな優勝者は5年で消える」と言われたので5年後だけは見てみたいと頑張った。
言葉もおぼつかない。旅から旅への生活、毎回デビューの緊張感。初めてのところ、初めての事ばかりだ。そんな中で日本の家族はもちろんの事、海外ではブリュッセルのホストファミリー、友達たちが支えてくれた。以後30年以上たった今でも彼らとの交流はつきない。あの時の子供たちは結婚して次の代になっている。
その間、パリにも住んだ。学生時代からの・・いや父も憧れの都だった…しかしその当時パリはポストでも買い物でも毎日フランス語で喧嘩しなくてはいけない。そんな日常に疲れた。ロンドンに住んだ。マネージャーもいて国際都市、島国の日本との共通点も多い裏側に二言も英語を話せば審査される体験についていけなかった。英語を勉強する暇も気分的余裕もなかっただけなのだが・・・
アメリカ・マルボロフェステイヴァルという室内楽の音楽祭に呼ばれ、そのあと友人もたくさんできてニューヨークにも住んだ!当時日本円対ドルが300円以上というなんといっても天下のニューヨーク。軒並みあるきらびやかな音楽会は社交・・しかしそういったものに顔を出したり、付き合ったりする事にも自分は向いていないことがわかった。
そうやっていつもブリュッセルの屋根裏に戻ってきたのだ。

89年にはそういった経験も考慮に入れブリュッセルで自分の「住処」を確保した。その当時幼かったドリマエル家の子供たちは「ユズコは何で出ていくの?」と親に問う「あのね。大きくなったら出ていくの」私はもう31歳になっていた!

10数年間のソリスト生活ののちに結婚して子供が生まれた。だんなはベルギー人の音楽家。リエージュオケでヴァイオリンを弾いていた。安心して楽器を持ってもらえる。子供が小さい頃はサーカスのように一人おんぶ、一人の手をひき、もう一方の手でヴァイオリンを持って旅をした。どこにでも連れて行きたかったのだ。もちろん荷物は持てないので旦那、妹、親本当にみんなにお世話になった。懐かしい思い出だ。

子供たちは親に同行して日本とベルギーを行き来しつつ、あっちこっちの幼稚園に通った。今でも日本に里帰りすると近所の子が遊びに来る。
小学校からはブリュッセルに落ち着いた。15年前ぐらいの事である。
私は演奏活動を続けながらも子供たちのそばにいる時間を増やそうとブリュッセル・コンセルバトリーの教職についた。子育てを味わっていて良かった。弟子を育てる事はその延長で忍耐力と想像力を養う良い機会となっている。

子供たちはフランス語系の学校に行った。先生を尊ぶ、勉強も試験も結構きつい・・・そんな感覚は私が日本で育った1970年代と似ていた。おかげでそんなにカルチュアショックもなく言葉の壁はあったものの親業を行うことができた。フランス語で宿題を見れば、それも2度小学校の課題を一緒にやれば「私もフランス語完璧!」と思っては見たが現実はだいぶ遠いものだった。今でも自らのフランス語の語彙のなさ、言い回しの少なさ、あるいは年を取って始めたフラマン語のできなさに歯がゆい思いは隠せない。「いったい何年住んでいるのだ」と自問する。

私たち親が演奏旅行で出かけている際、子供たちを近所のテレーズおばさんにあずかってもらった。というより彼女が家に来て住んでくれた、モカという犬とともに!そしてその「子供軍団」彼女の預かっていた他の子供たちとの絆は兄弟よりも濃く、彼らは大きくなった今でも嬉しそうに集い、また悩みを分かち合っている。テレーズにも大変助けられた。

子供たちも20歳と17歳になった。ひとまず子育て終了である。

もしかして日本に帰っていたら・・もっと裕福になっていたかな?
もしかしてロンドンに住んでいたらもう少しキャリアが積めるよう練習をする姿勢だったかな?今もケンブリッジ・トリニティカレッジの講習会から帰ってきて練習しなきゃ!と家事もそっちのけ・・・の1週間が過ぎた。

しかしまたのんびり買い物をしてご飯を作る・・そんな家庭生活に戻る。
これを味わえたのもブリュッセルのおかげかもしれない。

そうこうしているうちに34年の歳月が流れた。
旅芸人の身とはいえ、ベルギーの恩恵にあやからずして今の私はない。



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