ベルギーの街角から:日本大使からの一言

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第4回 ワーテルローと関ヶ原

 8月31日、古田肇岐阜県知事、西脇康世関ケ原町長を含む岐阜県の関係者がワーテルローの古戦場を訪れ、ジル・マユ・ブラバン・ワロン州知事をはじめ、ブレン・ラルー市、ワーテルロー市、ジュナップ市、及びランヌ市というこの地域の自治体の代表と懇談し、ワーテルロー古戦場と関ヶ原古戦場との間の姉妹古戦場協定書の署名を行いました。
 日本とベルギーの友好関係樹立151年目に当たるこの機会に、ワーテルローと関ヶ原という歴史的に有名な古戦場の間の協力と交流がスタートすることは、大変意義深いことと思います。姉妹古戦場という、これまでに見られない枠組みの下で、岐阜県及び関ケ原町の方々と、ブラバン・ワロン州及び関連する市の方々の協力と交流が進展することが期待されます。

 ワーテルローは、首都ブリュッセルの南約18kmの地点に位置する場所で、今から202年前の1815年6月18日に、その後のヨーロッパの歴史を決することになる大きな戦いの舞台となったところです。皇帝ナポレオン1世に率いられたフランス軍と、ウェリントン公爵ウェルズリーの率いるイギリス・オランダ連合軍及びブリュッヘル将軍の率いるプロイセン軍を合計すると、20万人に近い軍隊がこの地で激突し、約半日の間、ヨーロッパの歴史上最も有名な戦いの一つを繰り広げました。
 この戦いについては、数え切れないほどの論評や分析が行われていますし、ヴィクトル・ユゴーも有名な小説「レ・ミゼラブル」の中で描いていますが、私なりに戦いの勝敗を決した要因を述べると次の3点になります。第一に、前夜の6月17日から18日早朝にかけて激しい雨が降り、このためフランス軍主力部隊の行動開始が遅れたこと。特に、地面がぬかるんで砲兵部隊の移動に予想外の時間を要したと言われています。このため、当初のナポレオンの想定に反し、プロイセン軍進軍前にイギリス・オランダ連合軍を撃破することが出来なくなりました。第二に、戦い前半の中心となったウーグモン農場において、ここを守るイギリス軍が善戦し、フランス軍の侵攻を食い止めたこと。ちなみに、この時期、イギリス軍の主力部隊は北米大陸での米英戦争から未だ戻っておらず、ワーテルローで戦ったイギリス軍部隊は経験不足だったのに対し、フランス軍は、長年ナポレオンと行動を共にして来た古参の近衛兵を中核として、士気は高かったと言われています。第三に、プロイセン軍に対処するため派遣されたフランス軍別働隊が、プロイセン軍を捉えることが出来なかったこと。このため、戦いの終盤、フランス軍とイギリス・オランダ連合軍がまさに激戦を繰り広げている最中にプロイセン軍が救援に駆けつけ、これが決定的な打撃となり、フランス軍の潰走を招くことになりました。
 ワーテルローの戦いの歴史的な史跡を残し、この戦いに関する事実を後世に伝えて行くために、地元のブラバン・ワロン州をはじめ、関連する市の方々が大きな努力を続けて来られたことは、容易に理解出来ます。特に、2015年のワーテルローの戦いから200周年を記念する年には、ビジターセンターが戦場の地下にオープンし、最先端技術を駆使した映像や展示が行われるなど、施設の整備が進みました。今日では、多くの人々がワーテルローの戦いを、あたかも自らが参加しているかのように、体感することが出来るようになっています。

 一方、日本のほぼ中央に位置する岐阜県関ケ原町においては、今から417年前の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、その後の日本の歴史を決することになる大きな戦いがありました。徳川家康に率いられた東軍と、石田三成を中心とする西軍を合計すると15万人を超える軍勢が関ヶ原で激突し、これまた約半日の間、日本史上で最も有名な戦いを繰り広げました。
 関ヶ原の戦いについては、日本国内で、多数の論評や分析が行われると共に、小説や映画、テレビドラマも数多く作成されているので、ここでその経緯に触れることは差し控えたいと思います。ちょうど現在、司馬遼太郎の「関ヶ原」を原作とし、人気の俳優陣を起用した映画が日本で公開されていて、多くの観客を集めています。
 また、日本においても、地元の岐阜県や関ケ原町が、この戦いの史跡を保存し、戦いの事実を後世に伝えて行くための努力を続けています。

 このように、国や時代は異にするものの、大規模な軍隊が短時間に集中的な大会戦を行った二つの地域が協力し、交流を深めることは、極めて自然なことであると共に、重要なことです。史跡の保存や管理、歴史的な事実の継承などに関して、お互い持つ経験や技術を共有することは、双方にとって有意義なことです。また、歴史的に著名な古戦場を有することを、観光をはじめとするその地域の経済発展にどう活用するかという点についても、大いに協力が期待される所です。

 最後に、外交に携わる者として、一言付け加えたいと思います。古戦場について語る時、私達は、戦いの犠牲者に心を向けることがどうしても必要です。
 ワーテルローの戦いでは、フランス軍のうち約4万人が死傷、捕虜又は行方不明になり、イギリス・オランダ連合軍では約2万7千人が、プロイセン軍では約7千人が死傷又は行方不明になったと言われています。関ヶ原の戦いについては、戦死者だけに限っても、東軍4千名から1万名の間、西軍約8千名の犠牲者が出たと言われています。このように、大きな戦いは大きな犠牲をもたらすものでした。
 こうした大きな犠牲に対する反省もあってか、ワーテルローの戦いの後、ヨーロッパでは、外交によって主要国間の勢力均衡を保ち、戦争が生じないように努力する時代が続きました。第一次世界大戦が勃発するまでの100年間は、こうした努力が一定の成果を生んだと言うことが出来るでしょう。この時期のヨーロッパにおいては、国や地域によって差異はあるものの、国民国家の形成や、人々の権利がより良く保護される政治体制の樹立に向けた政治面での発展、産業革命など経済面での発展、様々な分野での文化面での発展が見られたことは良く知られています。
 日本においても、関ヶ原の戦いの後、戦いに勝利した徳川家による幕藩体制が確立すると、約260年間にわたって基本的に平和な時代が訪れました。この時期は、経済、社会、文化など幅広い分野において、19世紀以降に日本が大きく発展するための基盤が形成された重要な時代となったと言えましょう。
 こうして、ワーテルローの戦いと関ヶ原の戦いを振り返ってみると、過去における戦いの史跡を保存し、戦いの事実を伝えて行くことは、平和の尊さと平和がもたらす果実の素晴らしさを教えてくれることになると、痛感いたします。

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