ベルギーと私

トップ > ベルギーと私

» 過去記事



ベルギーと私

森 耕治
ベルギー王立美術館公認解説員

2014年10月

belandme_006

2009年1月、私は突然ベルギー王立美術館の広報部長という方に呼び出されました。美術史界のブラック・ジャックを自称していた私は、呼び出しを受ける理由がよく分からず、またしても圧力を加えられるのか早とちりして、分厚いファイルを抱えて、私が最近発表した論文が気に食わないなら、とことん戦ってやると悲壮な覚悟で出かけたのです。

ところが、応対に出てきたのは、笑顔いっぱいの美人の部長さんでした。その上、いきなり私を一階大ホール横の映画館のような講義室に通して「貴方と王立美術館の間でギブ・アンド・テークの協力関係を築きたいと思います。あなたは日本人来館者の増大に寄与して下さい。同意していただけるなら、マスコミを動員して貴方を有名人にしましょう、手始めにここで講演会を開いて下さい。」

いきなりこんなオファーを受けるとは予想も期待もしていなかったので、頭をハンマーで殴られたような放心状態になり、つい仏語でウイと答えてしまいました。

その夜、家に帰ってから、涙が出て止まらなかったことを覚えています。嬉しくて涙が出てきたのではなく、過去30年間の苦しい思い出がこみ上げてきた上に、美術史界の「ブラック・ジャック」になることをひたすら夢見てきた私が、なぜかベルギー王立美術館に入ることになったことが不甲斐なく思われたのです。

その後何度か具体的にどのような協力関係が結べるかを教育部長とも相談の上、私は結局教育部付けの公認解説員としてデビューすることになりました。初出勤は、同年5月20日、王立マグリット美術館が国王陛下によって開館された日でした。その上、開館当日の午後7時半のベルギー国営テレビのニュースで、美人人気司会者のアジャ・ラビブに館内で、館長の次に実況生中継で仏語のインタビューを受けるという栄誉もついていました。「マスコミを動員して」という部長の言葉はウソではなかったのです。その日以来、私の人生が変わってしまいました。

私は、5歳の時に始めて京都芸大の先生について油絵を勉強し始めました。その後、11歳の時に、当時京都芸大講師で、現在もご健在で大活躍の川端紘一画伯に師事して油絵とデッサンを学びました。先生のアトリエでは、高いレベルの技術のみならず、絵の本質的なものを学んだような気がします。それに学閥や有名公募展に一切依存せずに、自分の力のみで這い上がれという師の教えは、私のその後の生き方に決定的な影響を与えました。

さらに、貧乏な考古学者だった父の影響を受けたのか、高校時代に急速に実技だけでなく、美術史に関心をいだくようになり、フランスに行くことを決意した次第です。

そして、高校卒業後、渡仏してからソルボンヌ、ルーブル学院、パリ骨董学校等に学び、その後も、貧乏な両親にあまり迷惑をかけぬようにと、こつこつと働きながら夜学などで勉強と独自の研究を続けてきました。学校と名のつくところに通わなくなったのは、なんと45歳のときでした。

その間、記憶にあるだけでも飢え死にしかけたこと3回、凍死しかけたこと1回、貧困と戦いながらの美術史人生でした.でも、飢えと貧困以上につらかったことは、世間の無理解でした。私は、幼い頃から絵が好きで専門教育を受けてしまったので、当時の誰も理解できないような哲学的美学論文には、生理的な反感を持っていました。「面白くも楽しくもない美術史ならやめてしまえ」「絵が好きな人がもっと好きになる。絵が嫌いな人も好きになる美術史」が21世紀の新・美術史であると固い信念を持って研究を続けてきました。その上、書く論文は口語体で、可能な限り易しく、それでいてトップレベルの内容というのが私のモットーでした。このモットーには今も変わりはありません。

しかし、私は20年世間より先走りしていたようです。「ド素人」「アマテュア」など蔑まれ、画期的な説を出すたびに、「偉い先生に無礼だ」とか、「偉い先生に論文をお見せして、先生が許可されたら発表してもいい」などと言われ続けました。幸い、2008年ごろから、在留邦人によって創設された「絵画の会」という会の講師を引き受けるようになってから、少しずつ世間の風向きの変化を感じるようになりました。それまでの、堅苦しい、誰にも理解できないような美術史に飽きた美術ファン達が、「面白い」と言って、講演を聴いてくれたり、論文を読んでくれるようになったのです。同じ川端アトリエ出身で、最近ずいぶん売れている水墨画家 篠原貴之君の言葉を借りるなら、「世間が追いついた」のでしょう。

そして今年の5月は35年ぶりの凱旋里帰り講演旅行となりました。ベルギー大使館と在日フランス大使館からも後援を受けた上、ベルギー大使館でのレセプテョンつき講演会と、京都嵯峨芸術大学での特別公開講演等、計5箇所での講演をすべて成功させて、翌月はベルギー王立美術館を公式訪問された安倍総理夫人に約1時間日本語で所蔵作品の解説をさせていただきました。後日、首相官邸からいただいた感謝状には、私の信条とする「絵が好きな人がもっと好きになる。絵が嫌いな人も好きになる美術史」という言葉が引用してありました。

今年は、11月にも里帰りして、京都、高槻、大阪、横浜、東京、浦安で講演します。今回もベルギー大使館や大学での講演も予定されています。また、某国立美術館の館長や美術大学の副学長との面会も予定に入って盛りたくさんです。

過去の苦難はいまでは笑い話に過ぎません。でも、私を無名研究者から引き上げてくれたのが、無名の一般の美術ファンの皆様であったこと、そしてベルギー王立美術館の英断があったことを私は決して忘れません。そして大学関係者と学芸員達が私の美術史論に注目しだしたのは、一般の美術ファンの後であったことを強調したいと思います。去年、某日本のメーカーの社長さんに「貴方はマーケットを先に取った。ビジネスでもマーケットを取った者が勝ちです」と言われたことがあります。そういう形容の仕方もあるのですね。

また2年前に始めた、フェースブックの個人ページ「欧州美術史講座」は、自分自身の予想を何百倍をも上回って、たった2年間で、月に5万回のアクセス数を持つ日本一の美術史専門サイトになってしまいました。このページには、毎回無料でフランスとベルギーの巨匠達の名作のオリジナルな解説を掲載していて。最近は大学の先生方や学芸員までお読みになっていると聞きます。しかも毎月大変なスピードでアクセス数が急上昇しているので、来年中には月10万回、年に100万回以上のアクセス数に達するでしょう。

そこで、今まで自分で呼んできた「新・美術史」という呼び方を改めて、「百万人の美術史」と名前を変えました。たとえ貧乏でも、学歴や社会的地位がなくても、誰でも絵を愛することができる、またそうでなくてはいけない。そんな夢を実現する為の21世紀の開かれた美術史です。

この「百万人の美術史」をフルに活用して、微力ではありますが、私の第二の祖国となったベルギーと日本の間の親善と、文化・芸術の交流に残された人生を捧げたいと願っています。

森 耕治 もり こうじ

京都出身。美術史家。マグリット美術館が併設されているベルギー王立美術館公認解説者。ポール・デルボー美術館公認解説者。5歳のときから油絵を学び、11歳のときに京都の洋画家 川端紘一画伯に師事。京都府立嵯峨野高校、ソルボンヌ、ルーブル学院、パリ骨董学校等に学び、2009年にベルギー王立美術館より、ヨーロッパの国立美術館では初の日本人公認解説者として任命される。2010年よりポール・デルボー美術館の公認解説者も兼任。美術愛好団体「絵画の会」の常任講師。

ベルギー国営放送、雑誌「ゆうゆう」、NHK「迷宮美術館」ルーベンス特集,日経新聞日曜版、旅の雑誌ACT4等で活動が紹介された。

美術館での活動以外に、毎年十数回の講演会を日本とヨーロッパでこなす。2014年4月には在日ベルギー大使館主催の個人講演会、京都嵯峨芸術大学での公開講演会等を行った。

同年5月ベルギーを公式訪問中の安部総理夫人にベルギー王立美術館を代表して所蔵作品の解説を行った。今年11月にも里帰り講演旅行が予定されている。

現在フランダース絵画から、シュール・レアリスムまで広範囲な分野の作品解説を執筆中。2年前に書き上げたデルボーの作品解説書「ポール・デルボー、愛の讃歌」は、現在出版社を探している。

2013年よりフェースブックの公開ページ「欧州美術史講座」を単独執筆。週2回のペースで論文を発表し、月間約50000回以上のアクセスを維持して、美術史専門のサイトとしては日本最高記録を維持している。

著書 ベルギー王立美術館の公式日本語解説書「ベルギー王立美術館、古典美術館名作ガイド」

インスピレーション出版 「誰も知らなかったマグリット」マール社 2012年12月に出版

「ゴッホ、最後の71日間」 を2014年5月に電子出版

著書の内容と、マグリット美術館、デルボー美術館での作品解説に関する問い合わせは koji.mori789@gmail.com まで。