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第5回 ベルギーの歴史、多言語国家の苦悩

2013年1月4日

    新年明けましておめでとうございます。政治も経済も外交も多事多難な昨今ですが、今年こそ良い年、希望の見える年になって欲しいですね。 さて、私自身、ブリュッセルに着任して2ヵ月半が過ぎ、日々の生活が少し落ち着いてきたところで、ベルギーに関する書物を取り出しては夜な夜な読みふけっています。結構面白く、先の年末年始の休暇などはほとんど読書三昧の毎日でした。その中の1つ、ジョルジュ-アンリ・デュモンというベルギーの歴史家が最近著した「ベルギーの歴史」という分厚い本の冒頭部分で、古代ローマ時代のジュリアス・シーザーが「ガリア戦記」に書き残したベルギー人評が紹介されています。いわく、「全ガリアの諸部族の中でベルギー人が最も勇敢である」と。確かにシーザーは、紀元前1世紀、ガリア地方の大半を平定した後、北方のエブロン族(ベルギー人の祖先?)と最後の戦いを行い、5年近くに亘って大いに苦戦を強いられています。ベルギー人の気骨を感じさせる、なかなか面白い話ですね。

<ワロンとフラマン>

    ベルギーは多言語国家です。国の北半分がオランダ語地域、南半分がフランス語地域で、東のドイツ国境に隣接した小さな町ではドイツ語が話されています。首都のブリュッセルにはフランス語を話す地区とオランダ語を話す地区とが混在しています。一国一言語の日本から来た私には何とも複雑怪奇な様相に映ります。どうしてこうした状況になったのかについては歴史を紐解く必要があります。
    もともとベルギーという国は欧州西方のロマン語世界とゲルマン語世界にまたがる境界に位置し、12-13世紀まで遡れば(「国」としては未だ存在せず)多くの地域領主が個々別々に支配する非統一な「低地地方」に過ぎなかったのです。それが14世紀半ば、ほぼ全域がブルゴーニュ公爵の所領になることで現在のオランダやルクセンブルグを合わせた「1つの地域」になる端緒が得られます。翌15世紀末には婚姻関係によってオーストリア・ハプスブルグ家に組み込まれて神聖ローマ帝国の支配地域になり、16世紀半ばからは相続によってスペイン・ハプスブルグ家の領土となります。ベルギーにとっての大きな転機はこの直後に訪れます。16~17世紀に全欧州を巻き込んだ宗教改革のうねりの中で「低地地方」の北半分にカルバン主義のキリスト教(プロテスタント)が広がり、カトリックを信奉するスペイン本土と戦ってオランダとして独立してしまうのです。この時、カトリック信者の多い南部(現在のベルギー)は引き続きスペイン領のまま留まるのですが、その後、フランスのルイ14世の時代に王位の継承などをめぐる各国間の争いが続き、再びオーストリア・ハプスブルグ家の領地になります。18世紀末にフランス革命が起こるとフランス市民軍が侵入し、やがてナポレオンの支配するフランスに完全に組み込まれるのですが、彼の敗北を受けたウイーン会議での戦後処理の中で今日ベルギーと呼ばれる地域はオランダの領土と決定されるのです。これが1815年、ベルギー独立の15年前のことです。ウーン、何とも複雑ですね。
    ここで分かることは、もともと「1つの地方」と考えられていたオランダとベルギーが分離したのは宗教・宗派の違いに起因するものであり、言語の違いによるものではなかったので、1830年にいざ「ベルギー王国」として独立してみると国内に2つの言語が共存してしまう結果となったということです。しかも独立直後に定められた憲法の中でフランス語のみが公用語とされたために、やがて国の北半分に居住するオランダ語地域の人々の不満が募り、19世紀末に妥協が成立してオランダ語も公用語とされたものの完全な平等には至らず、今日まで続く対立の火種となったのです。21世紀の現在は言語の違いによって分離された行政(連邦制)が定着し、経済格差の問題も絡んで「実質的な分離」がさらに進む傾向にあります。フランス語地域が「ワロン」、オランダ語地域が「フラマン」(オランダ語表記では「フランデレン」、英語表記では「フランダース」)と呼ばれ、これに第一次世界大戦後にドイツからベルギーに割譲されたドイツ語地域が加わって複雑な多言語国家が出来上がりました。外国人である私からすれば、これこそベルギーという国の「ユニークさ」であり、これを特色とする統一国家として大いに発展して欲しいと願うばかりなのですが、はてさて、この国の将来はどうなって行くのでしょうか・・・

<日本を訪れた最初のベルギー人>

yomoyama_005_tongeren     昨年の暮れ、年末の休日を利用してトンゲレン(フランス語名はトングル)というベルギー北東部にある小さな町を訪れました。ブリュッセルから87km、人口は3万人近いのですが、町の雰囲気は古色蒼然とした田舎町という感じです。それもその筈で、トンゲレンは古代ローマ時代には既に北方ガリア地方の中心的な都市として知られていたようで、町の中央広場にはシーザーと死闘を繰り返したと言われる伝説の英雄アムビオリックスの彫像が立っています。その直ぐ隣には中世(日本の鎌倉・室町時代の頃)に建てられたノートルダム大聖堂が威容を誇り、中に入ると6世紀頃のものと言われる宗教的遺品のいくつかを宝蔵室に見ることが出来ます。
    私がこの町を訪れたのには別の理由があります。それは、日本を訪れた最初のベルギー人と言われるイエズス会宣教師テオドロ・マンテルスの出生地がこのトンゲレンだからです。彼は1588年、28歳の時に長崎に上陸し、4年近くに亘って平戸周辺で宣教活動に従事したようです。かのフランシスコ・ザビエルが日本で福音の種を蒔いてから40年、マンテルス神父が長崎に上陸した時には既に豊臣秀吉によるキリシタン禁教令が発せられておりました。平戸の領主から弾圧を受け、1592年、マンテルス神父は失意のうちに日本を去り、翌年、マラッカで没しています。私はトンゲレンの中央広場に立って、マンテルス青年の宗教的情熱がどこから生まれたのかに思いを馳せました。そして、彼が生まれた1560年はこのノートルダム大聖堂が400年近い歳月をかけて完成した時期に重なることに因縁めいたものを感じました。日本とベルギーの最初の出会いは不幸なものでしたが、その後の長い両国友好の出発点になったのだということにわずかな救いを見出しつつ、私のトンゲレン訪問は終わりました。

<企業訪問シリーズ第3弾はホンダ>

yomoyama_005_honda     最後に、昨年末に訪問したホンダのことを一言ご紹介します。ホンダ・ベルギー・ファクトリー社はホンダ技研工業による最初の海外工場として1962年にアールスト市(ブリュッセルの西29km:人口8万人)に設立されました。その16年後にはゲント市郊外にホンダ・ヨーロッパ社が設立されています。アールストの工場(従業員185人)は設立当初は電動機付き自転車のような「モペット」と呼ばれるミニ・バイクを生産していたそうですが、その後変遷を重ね、現在は大型部品の包装・梱包、補修用バンパーの塗装などに特化しています。他方、ゲントの工場(従業員580人)は、小型補修部品の欧州ハブとして機能し、出荷前の最終検査も行っています。全欧州のインフォメーション・システムもここで管理しているとのことでした。両工場とも保管倉庫を有しているために敷地は広大で、ゲント工場の場合は運河を利用した専用の積出港まで付属しており、見るからに「物流拠点」という感じでした。

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