第36回 日本とベルギーのサッカー親善試合
2013年11月21日
 一昨日、日本とベルギーのサッカー・ナショナルチームによる親善試合がブリュッセル市内のボードワン国王スタジアムで行われました。お互いに来年のワールドカップ出場を決めているとあって本番の試合のような好勝負となりました。この3日前、ベルギー北東部のゲンク市におけるオランダとの試合を2-2で引き分けていた日本チームは、その勢いに乗ってFIFAランク5位という強豪ベルギー・チームに対して健闘し、3-2で勝利しました。私は幸運にも主催者の招待を受け来賓席で観戦出来たのですが、グラウンドと同じく来賓席でも完全アウェー状態で、日本チームの攻撃チャンスに大きな声援を送ることも出来ず、逆の展開になると周囲の興奮に一人取り残されている状況でした。実は、日本とベルギーのナショナル・チームは過去3度対戦しており、日本にとっては1勝2分けという良い結果を残しています。特に2002年の日韓共催のワールドカップでは2対2で引き分けたものの、2009年のキリンカップ・サッカーでは4対0で勝利しており、分の良い相手のようです。私は試合当日の昼に日・ベルギー双方のサッカー協会の幹部の皆さんと食事を御一緒したのですが、昔話に花が咲き、楽しい懇談の場となりました。現在のベルギー・チームの監督を務めているマルク・ヴィルモッツ氏は2002年のワールドカップで対戦した時のベルギー・チームの主将だったようです。来年のリオデジャネイロ大会の組み合わせ抽選は来月6日に行われます。さて、どのような組み合わせになるのでしょうか・・・。
<21世紀に生き残るベルギーの毛織物業>
今月、リエージュの更に東、ドイツ国境に近いヴェルヴィエ市を訪問し、かつてこの町で栄えた毛織物産業が今や中小企業2社だけを残すのみとなっている現況を視察しました。ベルギーは14世紀から16世紀頃にかけてヨーロッパにおける毛織物産業の一大中心地となり、その後も19世紀までは国内各地に多くの工場が展開していたのですが、20世紀も後半になると急速に衰退し、今では中国をはじめとするアジア諸国に押されて消滅寸前の状態にあります。しかし、私が訪問した2社は規模こそ昔に比べて大幅に縮小しているものの、業容を変貌させながらしたたかに生き残っている様子が見て取れました。
最初に訪問したのがヴェルヴィエ市の郊外、アンドリモンという山間の村に所在するイヴァン・シモニス社。同社は1680年創業、もともとは2千人近い労働者を抱え手広く繊維業を営む大手企業だったのですが、その後の業界不振から今では70名の社員でビリヤード台を被うラシャ布のみを製造する小さな会社になっています。ただ、この会社の布の品質は世界一と言われ、大きな国際大会で使用されるビリヤード台の大半に同社の製品が使われているそうです。日本にも大阪と千葉に取引先があるそうで、東日本大震災の時には被災者の支援にも協力したとのことでした。また、日本人のビリヤード選手のスポンサー企業になったこともあるとのお話には少々驚きました。興味深かったのは25色以上あるという布地の色の多様さで、通常は濃緑色が使用されるのですが、国際大会ではTV映りの良いブルー系統の布が好まれるとの説明でした。米国ではビリヤード台が家庭のインテリアの一部として使われている例が多いようで、カーテンや部屋壁などの色に合わせて赤や紫などの布も使われるとのことです。オランダでオレンジ色が好まれる理由については説明を要しませんね・・・。
もう1社はヨーロッパ大陸で唯一の羊毛洗浄業を営むトレテックス社。19世紀末に創業したというこの企業は、今では仲買業者が欧州や豪州、ニュージーランドなどから買い付けた羊の原毛の洗浄を受託するというニッチなビジネスに特化しています。狩立ての原毛は汚れている上に、藁の破片などの雑物が多く混じっており、これを羊糸に加工する前に特殊な技術で洗浄する必要があります。トレテックス社は240mあるという洗浄工程で、汚れを洗い流し、漂白した上に、カーボン工法で藁の破片などを炭化させて微細な粉末に変え扇風機のような機械で吹き飛ばして取り除いてしまうのです。最後はこれを乾燥し、水分比率を20%以下にして1立方メートルほどの塊に梱包しています。こうした洗浄技術では世界一だというトレテックス社には世界中から注文があるようで、最高品質の羊毛製品の原料を提供しているとのことです。従業員数が65名という小さな会社ですが、日本の大阪にある有名な布団(ふとん)メーカーも同社が洗浄した羊毛を(仲買業者を通じて)購入しているようです。驚いたのは、この小さなベルギー企業が最近アフガニスタンのヘラート市にカシミヤを扱う子会社を設立したという話です。自慢の洗浄技術がここでも生きているようです。なかなかしたたかですね。
<ルーヴァン・カトリック大学でのフランス語講演>
 先週、ブリュッセルの東南30kmほどのところにあるルーヴァン・カトリック大学(UCL)を訪問し、デルヴォー学長らの教授陣と100人近い学生を前に、「日本の過去、現在、そして未来」をテーマに1時間ほど講演しました。幕末から明治維新の時期の日本を語り、その後の近代化の過程を説明し、最後に安倍政権の誕生とこれからの日本の課題について私の考えを披露しました。この中で、16世紀末に強力な中央集権的サムライ国家が誕生する過程と1868年の明治維新によってこのサムライ国家が崩壊・消滅する過程に西洋諸国が密接に関わったという私の見方には学生たちが大いに関心を寄せてくれたようです。特に、1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、2丁の鉄砲を日本にもたらしたことが、その後の戦争形態を一変させ、群雄割拠の戦国時代を急速に終束させることに多大な影響を及ぼしたという視点は興味深かったようです。この講演はフランス語で行ったのですが、英語の場合と違ってフランス語の発音は口や舌を大きく使うので、普段しゃべり慣れないために1時間も話し続けると大変消耗します。もう少し特訓が必要ですね・・・。
<イーペルと第一次世界大戦>
 去る11日、第一次世界大戦の休戦記念日の祝日に、この大戦中の最大の激戦地の1つとされるイーペルの町(ブリュッセルの西120km)を訪れました。1914年の末にはこの町の郊外でドイツ軍と英連邦軍が対峙する戦陣を構え、何と4年近くに亘って一進一退を続けたのです。この間、毒ガスが使われ、戦闘機も投入されて、おびただしい数の戦死者が出ました。一説では、ドイツ軍25万人、英連邦軍30万人と言いますから、ちょっと信じがたい数です。町の近郊には戦没者の墓地が沢山あり、見渡す限りに広がる墓標には戦死者と所属部隊の名前が刻まれ、国籍の多様さが窺がえます。この日、町の東玄関とも言うべきメニン門の記念碑の周囲で追悼式典が行われ、英国軍が多大な犠牲を出しながらも死守した重要な戦闘地点という所縁(ゆかり)から英国国歌の演奏やバグ・パイプ部隊の行進などが行われておりました。式典への参加者やこれを周囲で見守る人々の中には英国や豪州・ニュージーランド、そしてインドからの旅行者も多く混じっていたように思います。私は、最近、「パッションデールの戦い」というカナダ映画(2008年製作)のDVDを視聴して、1917年秋にイーペル近郊を舞台に英国・カナダ軍とドイツ軍の間で展開された死闘(いわゆる「第三次イーペル戦争」)の凄まじさに戦慄を禁じえませんでした。戦争から100年が過ぎようとしている今も連綿として追悼行事が続けられていることにも感動します。
<デ・パンヌ海岸とレオポルド1世>
ベルギーの最西端、フランスとの国境までわずか数kmという海岸沿いにデ・パンヌという人口1万人ほどの小さな町があります。ベルギー人にとっては夏場における良好な海水浴場として知られている場所のようです。ブリュッセルからは140km以上離れているのですが、近くまで高速道路が走っているため、車なら1時間半もあれば到着出来ます。ただ、私のような歴史好きにとっては、デ・パンヌ海岸と言えば1831年にベルギーの初代国王であるレオポルド1世がドイツから英国を経由してベルギーの土を最初に踏んだ場所として関心の対象になっています。先日の週末、ドライブを楽しみながらこの地を訪れてみると、海岸から100mもないところにレオポルド1世の大きな立像がそびえ、大西洋に背を向け遙かブリュッセルの方角を見つめている姿が目に入りました。ドイツのサックス・コブール・ゴータ家の王子がベルギー国王となった経緯についてはこの「よもやま話」(第27回)で詳しくご紹介しましたので繰り返しませんが、フランス国王の娘であるルイーズ・マリー王妃と共に真夏のデ・パンヌ海岸に上陸した時のレオポルド1世(当時40歳)の思いに心を馳せると興味が尽きません。プロテスタントであった彼が、新生ギリシアの国王になる夢を断念し、歴史上初めて「国」の形を成し、しかもカトリック教徒が圧倒的に多いベルギーに初代国王として「赴任する」というのは当時のヨーロッパ政治の力学が生み出した奇景ですね。フランスに最も近い地点に上陸することを選んだ理由も新国王の心の揺れ・不安の表れのような気がしますが、さてどうなのでしょうか・・・。
|