日本と私

平成25年3月1日

金沢から東京へ ― JET後の生活

ソフィー・ボクランド

JETプログラム国際交流員として金沢市で5年間勤務した後、新境地を求めて東京へ引っ越すことに決めた。身の回りの物を4つの箱に詰めて友人宅に預けると、同僚や友達、そして仕事やアパートを後にして、スーツケースひとつで千葉へと旅立った。東京で仕事を探す間、親しくしている日本人家族が親切に私を自宅に泊めてくれた。そういうわけで、静かな金沢市よりさらに静かな野田市に住むことになった。野田市は、キッコーマン醤油の工場があることで知られている。

世界中どこでもそうなのだが、日本での就職活動も大変だ。私は、数えきれないくらいの面接を受けた。そのほとんどは日本語で行われたが、たまに英語でも行われた。面接時間が短すぎてがっかりしたり、みっちり3時間の筆記試験だったり、何度も面接に呼ばれたりした。私は何週間も、履歴書を見直したり、求人サイトを細かくチェックしたり、就職斡旋会社を訪ねたり、失業手当を貰うためにハローワーク(VDAB/Foremに相当する機関)に通ったり、応募書類を書いたり、面接の準備をしたりして過ごした。するとやがて、私の努力は報われた。新宿にあるIT企業の社長秘書のポストをオファーされたのだ。従業員400人中、私がたった一人の外国人だったことから、英語でのやりとり全般、ウェブサイトの翻訳、さらに上司に英語を教える役目まで任された。親切で熱心な同僚に恵まれ、驚いたことに私は全く残業をしなくて良いという快適な仕事だった。

新宿で働いたので、私は都心でアパートを探さなければならなかった。ぞっとするようなアパートもあれば、家賃が高すぎたり遠すぎたりして手が出ない物件もあった。そして2週間後、20件もの物件を見た後、ついに私は完璧な物件を見つけた。晴れて東京で見つけたお気に入りの新居の鍵を貰うには、まだ、山ほどある書類を提出したり、保証人を探したり、大金(家賃5か月分!)を払わなければならなかった。その池袋に近い2DKのアパートに引越したことで、私は、毎朝底知れない数の通勤者と一緒に窒息しそうにぎゅうぎゅう詰めの山手線で通うという偉大なる特権(皮肉を込めて)を手にしたのだ。

概して、東京での生活は好調なスタートを切ったが、実を言うと仕事には不満を抱いていた。そこで、在日ベルギー・ルクセンブルグ商工会議所(BLCCJ)に空きがあると聞いた時、私はチャンスを掴むべく面接を受け、次の日には契約書にサインをした。そして、新しい仕事のために退職届けを出すことになった。運良く、当時の上司は、この仕事が私にとって、事務所を運営するだけではなく、日本に住みながら母国と繋がりが持てるまたとない機会であることを理解してくれた。こうして、BLCCJのジェネラルマネージャーになって早9カ月が経った。

仕事はいろんな意味で遣り甲斐があった。ハイレベルのビジネスセミナーやパーティーなど沢山のイベントを企画し、事務所をきりもりするのにも慣れてきて、簿記を学んだり、補助金を申請したり、ウェブサイトやSNSを更新したり。5月に仕事を始めた時、私は早速、年2回行われるYoung Executive Stayプログラムを担当することとなった。私達はその間、日本市場を調査しに来たベルギーとルクセンブルグからの幹部のお世話をした。それからほんの数日後、ベルギーのフィリップ皇太子を団長とする2005年以来初の経済使節団を迎えた。今年BLCCJは創立35周年を迎え、数多くの興味深い活動に関与することになるだろう。BLCCJについてもっと知りたい方は、当所のウェブサイト http://www.blccj.or.jp/en/ 及びフェイスブックページ http://www.facebook.com/BLCCJ をご参照いただきたい。

私は池袋のマンションを既に引き払い、今は東京の反対側にある、あまり混み合わない有楽町線沿線のやや大き目のマンションに住んでいる。今回の引越しの理由は、好きな人と一緒に暮らすためである。東京に来た時、5年間金沢に住んでいた元JETの彼と密に連絡を取り合うようになり、いつの間にか親しい関係になっていた。そういうわけで、私がJETを終え、金沢を後にしても、この二つはずっと私の心の中に居続けるだろう。JETと金沢は、日本に行きたい、沢山の仕事を経験したい、とりわけ、素晴らしい人々に出会いたいという私の夢を実現する機会を与えてくれたから。これからもまだ、日本での冒険は続く。

後任CIRのマリスと IT企業のデスクで BLCCJ会長及びオランダ大使と