第9回 ベルギーと「コンゴ自由国」
先日、地元の新聞を読んでいたら職場のハラスメントに関する記事が1面トップで報じられていました。見出しが「ハラスメントに6ヵ月分の給与」となっており、大いに興味を惹かれました。この記事によると、目下、雇用大臣の下で、ハラスメントの加害者が被害者に対して最大6か月分の給与相当額を罰として支払うという改正法案が準備されており、近く議会に上程される見込みだというのです。また、この改正法案は、ハラスメント法の適用範囲を拡大して、職場におけるすべての心理社会問題、例えば、ストレス、緊張した人間関係、人事をめぐるトラブル、職場の雰囲気にまで心理的被害の原因を求めようとしているようです。被害者による被害内容の立証は必要なく、単に事実関係が明らかになれば十分であり、企業側は必要な予防策を講じることが義務付けられます。他方、2011年に職場環境管理総局に対して訴えが出されたハラスメントの件数は657件だそうで、前年比で215件減少し、しかもその大半がモラル・ハラスメント(セクハラは全体の5%)なのだそうです。では何故いまハラスメント改正法案なのかというと、最近OECDが発表した統計において失業者の中で精神障害を患う者の割合がベルギーは他の先進国と比べて異常に高い(18%)ことが背景にあるようです。ベルギーの場合、廃疾や心身障害による失業の場合は特別の手当てが支給される制度になっているのですが、この「廃疾」や「心身障害」の原因の各々30%前後が精神障害だそうで、これによる国家財政への負担が過大(GDPの3.4%)になっており、政府としてもモラル・ハラスメント対策に本腰を入れざるを得ないようです。
<初めて参加した欧州大使会議>
今週の初め、東京でヨーロッパ各国に駐在する日本の大使を一堂に会する「欧州大使会議」が開かれ、昨年10月に着任した私は初めてこの会議に参加しました。わずか2日半の会議なのですが、40人の大使がそれぞれの任地・任国の事情を踏まえつつ、これからの対欧州外交のあり方を熱心に討議しました。特に自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観を有する欧州諸国との関係は、混迷の度を深める世界情勢の中で、日本の立ち位置を明確にする上で重要であるとの共通の認識があったように思います。また、共通の関心事項であるエネルギー政策の行方やEUとのEPA交渉の進め方についても情報の共有と議論が行われました。私からは、NATOとの関係を踏まえた安全保障分野での日欧対話の重要性を指摘しました。また、大使会議期間中、安倍総理や岸田外務大臣とお会いし、明確な指示をいただきました。ベルギーに赴任して間もない私にとっては今後の仕事に取り組む上での貴重な指針が得られたように思います。
<ベルギーの政治家との交流>
この1ヵ月ほどの間に、ベルギーの中央・地方の政治家多数と交流する機会がありました。最初がリエージュ州のミッシェル・フォレ知事。ブリュッセルの東100kmにあるリエージュの街については、前回の「よもやま話」で既にご紹介したように、ワロン地域(フランス語圏)の中心都市です。歴史的には10世紀頃にドイツの神聖ローマ帝国に属する公国の1つとして登場し、18世紀末にフランス革命の嵐に飲み込まれるまでの凡そ800年の間、「司教公国」として半独立国のような存在であり続けています。フォレ知事が正装して私を迎えてくれたのは「司教公国」の宮殿であった16世紀の建物で、内庭を四方から囲む石造建築の装飾は素晴らしいものでした。知事はMR(仏語系自由党)に所属し、下院議員、上院議員を経たのち、8年以上前から現職にあります。ベルギーの州知事は国王により任命され、終身その地位にあります。実際には健康上の理由などから途中退任される方が多いようですが、知事職が終身ポストというのは世界的に見ても稀なのではないでしょうか。
次にお会いしたのはオリビエ・デストレベーク下院議員でブリュッセルの真南50kmほどのところにあるラ・ルーヴィエ-ル市(人口78千人)の助役を兼務している方です。同議員は過去に20年間ほど柔道をやった時期があるそうで、その関係で日本に関心を持ち続けたとのことでした。昼食を挟んで2時間近く懇談したのですが、東日本の震災復興の状況から日本の最近の経済政策まで幅広い議論が出来ました。市の助役としては外国投資の誘致に努めている由で、日本企業の代表の方々と会合の機会を持ちたいとのことでしたので、協力を約束しました。
その翌日には上院の外交防衛委員長を務めるカール・ファンルーウェさんを表敬訪問しました。新フランドル同盟(NVA)のブリュッセル支部長も務めておられるそうで、40歳代の新進気鋭の政治家という印象でした。やはり東日本大震災後の復興状況に強い関心が示され、私からは「多くの困難な課題を抱えているため遅々とはしているが着実に進展しています」とお答えしました。日・EU間のEPA交渉の見通しについてもお尋ねがあり、貿易分野だけではなく多くの経済・技術分野を取り込んだ包括的な合意を目指したいと申し上げました。この会見には先方に同席者がいたのですが、何と数年前まで日本大使館で働いていてくれた青年なのです。大使館から議会へというのは随分と華麗な転身ですね・・・。
最後に、先週、ワロン地域の環境政党エコロ(ECOLO)に所属するゾエ・ジュノー下院議員と会食を共にしました。ジュノー議員はブリュッセルを選挙区にする女性議員で、25歳の時から十数年に亘り国会議員を務めているとのことです。現在はベルギー日本友好議員連盟に所属しているのですが、他にもモロッコとの友好議員連盟の会長やトルコとの友好議員連盟の副会長を務めるなど少数政党の代表としていくつもの友好議員連盟を掛け持ちで担当しているようです。「日本とは特段の問題がないためベルギー日本友好議員連盟の活動は活発ではない」との率直な意見を聞き、私としては複雑な思いがしました。
<家畜争議から生まれた有刺鉄線>
ブリュッセルから西に90kmほど高速道路を走ると西フランドル州の中心都市の1つであるコルトリーク市(人口7.5万人)に至ります。そして、その東隣り、高速道路を挟んでちょうど反対側のところにズウェベゲムという小さな町(人口2.4万人)があります。地平線が見えるほどの広大な田園に囲まれた一見何の変哲もない田舎町なのですが、ベルギーの人たちの間ではレオ-レアンドル・ベカルトという偉大な産業人の出生地かつ創業の地として良く知られているようです。今から130年ほど前、日本では明治初期の頃の話です。
このベカルトという人物は、1855年に人口が未だ千人にも満たなかったズウェベゲム村に金物屋の一人息子として生まれ、13歳の時に父親を亡くしたために少年の身で店を引き継いでいます。そして24歳の時に、家畜を放牧している近隣農家どうしの境界争議に巻き込まれ、「有刺鉄線」でそれぞれの敷地を囲むことで家畜が勝手に隣の農場の草を食んで回ることがないようにして、争いを解決して行きます。今でこそ「有刺鉄線」は珍しくも何ともないのですが、当時は偉大な発明だったようで、これが爆発的に売れ、25歳のベカルト青年はこれを工場で大量生産するようになるのです。21世紀の現在、「ベカルト社」はベルギー有数の大企業に成長し、各種鉄線や特殊金属ワイヤーの生産では世界でも大きなシェアを誇っているようです。企業データに拠れば、2011年の世界120ヵ国での販売総額が46億ユーロ(約5500億円)、総従業員数は27000人となっています。1971年には東京に支社が開かれ、茨城県や埼玉県に工場があるようです。「たかが有刺鉄線、されど有刺鉄線」ですね・・・。
<「ゴンゴ自由国」における忌まわしい歴史>
ブリュッセルから南東に14kmほど行くと、人口2万人ほどの小さな町、テルビューレン市があります。そこに20世紀はじめに建設された王立中央アフリカ博物館があり、ベルギー領コンゴを中心とした当時のアフリカの様子を知るには十分すぎるほどの巨大な常設展示場になっています。しかし、先日、この博物館を訪問した時に私の目を惹いたのはアフリカの民芸・風俗や動物の生態ではなく、19世紀末のベルギーによる植民地支配の過酷さを示した小さなコーナーでした。相次ぐ巨大建造物の建設によって巨額の債務を背負ったベルギー国王レオポルド2世が国王の私領であった「コンゴ自由国」(現在のコンゴ民主共和国)でのゴムの採集強化を命じ、現地の人々が多数犠牲になったという説明になっています。
ベルギーの植民地支配が如何なるものであったかに興味を持った私は、ジョセフ・コンラッドという英国人作家が19世紀の最末期に著した「闇の奥」という小説(日本語訳版)を取り寄せ、早速読んでみました。この小説は30年以上も前にフランシス・コッポラが監督を務めたハリウッド映画「地獄の黙示録」の種本になったそうで、映画はベトナムを舞台にしたものに翻案していましたが、小説自体はベルギーが植民地化しつつあったアフリカの「コンゴ自由国」での物語です。小説の主人公の一人はこのコンゴの密林の奥地に住み、地元の未開の人々から神と崇められ、象牙を集めてはベルギーに送り込んでいたという物語展開になっています。また、同じ20世紀の初めに英国人ジャーナリストのエドモンド・モレルが「赤いゴム」という小説を書き、コンゴでの前代未聞の圧政と搾取、殺戮の様子を描いたため、国際的な非難が巻き起こり、これがレオポルド2世からベルギー政府への行政権限移譲(1908年)に繋がったようです。実際、19世紀末のコンゴでは、主に象牙とゴムの採集が行われおり、そのために地元の人々が労働を強制され残虐な刑罰を科せられて一説に数百万人とも言われる死者が出たと伝えられています。どの国の歴史にも忌まわしい過去、出来れば思い出したくない出来事があります。ベルギーにとっては、かつての植民地コンゴで19世紀末に起った出来事もそうした過去の1つではないかと思います。しかし、その事実の一端を博物館の一角にコーナーを設けて紹介しているところに現代ベルギー人の良心を見る思いがしました。
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