第16回 2人の州知事と2人の市長
先日、あるベルギー人と話していた時に、ベルギーが世界に誇るものは何かということが話題となり、私が「ビールとチョコレート」と指摘すると、その方から意外な返事がありました。ビリヤード台のマットとトランプ・カードの生産こそベルギーが世界一の生産を誇るものだと言うのです。嘘か誠か早速調べてみると確かに「当たらずとも遠からず」らしいのです。ビリヤードの台に敷いてある濃緑色のマットは特殊な繊維製品で、ボールの直進性や速さ、回転などをプレイヤーの狙いのまま完璧に反映出来る品質のものでなければなりません。世界でこうした繊維を生産出来るのはアンドリモン市(ブリュッセルの東120km)に所在するシモニス社だけだというのがベルギー人の言い分です。シモニス社は17世紀末頃からひたすらこの製品のみを作り続けているようで、ビリヤードの国際大会で使用される競技台のマットはだいたい同社の製品だとのことです。他方、トランプ・カードの方はどうかと言うと、こちらにはツルンホウト市(ブリュッセルの北東84km)にあるカルタムンデイという会社が登場します。この会社自体は40年ほど前に3社が合併して設立された新しい企業なのですが、もともとは各々200年以上の歴史を持つ印刷会社だったようです。世界8ヵ国に製造拠点を有し、年間の総売り上げが150百万ユーロ(約190億円)だということですからこの業界では大手には違いないのですが、「世界一」かどうかまでは確認出来ませんでした。市内にはトランプ博物館まであるそうですが、まあ、意外なところにお国自慢があるものだと感心しますね・・・。
<2人の州知事>
10日ほど前、ベルギーの最西端に位置する西フランドル州に赴き、ブリュージュ市内にある庁舎でカール・デカルウェ知事にお会いしました。知事はフランドル地域議会の議員を17年間務めた後、昨年2月に国王の任命によって現職に就任されたのですが、未だ52歳と若く、これから長きに亘って知事職を務める方と見受けました。西フランドル州は州都のブリュージュ市が欧州第一級の観光名所であることに加え、西の海岸沿いにはゼーブリュージュ、オステンドという海港やクノック・ヘイストなどの海浜リゾート地をかかえて、極めて豊かな土地柄なのですが、これからの地域経済の発展のためには産業の振興が課題のようです。知事によれば、農産食品加工、化学(プラスチック)及びクリーン・エネルギーが3つの戦略セクターとのことで、洋上風力や海波を利用した発電に注力したいとのことでした。日本企業の投資は大歓迎で、来年春には初めての訪日を実現したいと語ってくれました。
2日前、アントワープ州を再び訪れ、キャシー・ベルクス知事を表敬しました。ベルクス知事はアントワープ大学の先生で、何と未だ44歳。ベルギーの州知事は国王によって終身職として任命されるため比較的高齢の方が多いのですが、そうした中では例外的な若さです。現在はアントワープ大学の理事長や熱帯医学研究所の会長など多くの役職を兼務しておられるようです。ご主人もアントワープ大学の副学長を務めておられるようですので、ご夫婦でアントワープの学術界を背負っていると言っても過言ではありませんね。私から、アフリカにおける感染症の問題に熱心に取り組んで来られたベルギー人のピーター・ピオット博士(現ロンドン大学熱帯医学研究所長)が今年度の野口英世アフリカ賞(賞金は何と1億円!)を受賞されることをお伝えすると、殊の外喜んでおられました。なお、州知事は日本文学の大変な愛好者で、川端康成から村上春樹まで何人もの日本人作家の名前が次から次へと出てくるほどです。ベルギーの各地方を訪ねると、意外なところに意外な日本ファンがおられるので本当に驚きます。
<2人の市長>
先日、ブリュッセルの西90kmに位置するコルトレイク市(人口75000人)を訪れ、ファン・キッケンボルネ市長と昼食を御一緒しました。市長は昨年10月に就任したばかりで、直前までは連邦政府の副首相(年金担当)を務めていたという経歴の持ち主です。それでいて、現在39歳というのですから驚きです。市政における目下の最重要課題は過疎化の阻止で、特に若者に魅力的な就職機会を提供することで「頭脳流出」を防ぎたいとのことでした。また、フランス国境に近いことから逃亡犯罪が増えており、治安の維持も課題の1つになっているようです。市長の対日関心は強く、これまでに何度も訪日しており、3年前には夫妻で2週間の私的旅行を敢行したと語ってくれました。昼食の席には後半から「ファン・デ・ウィーレ」という地元企業(紡織機の製造・販売会社で従業員2400人)の社長も加わり、日本企業とのビジネス関係が話題となりました。社長から同社訪問の招待を受けましたので、近い機会に訪問することを約束しました。
続いて先週、リンブルグ州の州都ハッセルト市(ブリュッセルの北東80km、人口73000人)を訪ね、ヒルデ・クラース市長にお会いしました。ハッセルト市は1985年に日本の伊丹市と姉妹提携しており、その関係で、市長自身、つい2週間前に一行40人ほどで伊丹市を訪問したばかりです。初めての訪日だったそうですが、日本の街の清潔さに強い印象を受けたことや、大阪滞在中の4月13日早朝に大きな地震に遭遇したことなどの思い出を語ってくれました。ハッセルト市の中心部はベルギーの他の街と違って、直径800mほどの円を描いている環状道路の中に位置し、まるで迷路のようなショッピング街になっています。そして各道路がいつでも歩行者天国に出来るような仕掛けになっていて、商店街の住民が店の前の路上でバーベキュー・パーテイを開催する場合は市から補助も出るのだそうです。これによって地域住民の親睦が図られ、お互いに顔見知りになることで不審者の侵入による犯罪が激減しているとのお話でした。誠にユニークな試みですね。
<エリザベート・コンクールの歴史>
いよいよ今月6日からエリザベート・コンクールが始まります。優勝者が決まる6月1日まで1ヵ月近い長丁場です。1951年にこのコンクールが「エリザベート国際音楽コンクール」として始まってから今年で62年になります。この間、日本人の入賞者は(私が調べた限りでは)47人に及びます。内訳はバイオリン部門が24人、ピアノ部門が18人、作曲部門が5人となっており、声楽部門の入賞者はいないようです。1960年頃までの入賞者はほとんど欧米人(特にソ連からの演奏者)で、アジアからは1956年にピアノ部門で、また、1959年にバイオリン部門でそれぞれ1人の日本人が入賞(10位と12位)した例があるのみです。アジアからの上位入賞者ということになると、1971年にピアノ部門で日本人が3位に入ったのが初めてなのですが、1980年あたりから様相が一変します。特に、この年のバイオリン部門では堀米ゆず子さんが優勝した他、3位と4位も日本人で、これ以降、この部門は毎回のように日本人の上位入賞者を出しており(昨年は2位入賞)、「日本人のお家芸」とも言える活況を呈します。ピアノ部門でも1987年には若林顕さんが2位に入ったほか、5位と7位も日本人で、やはりほぼ毎回のように入賞者を出すに至っています。しかし、1985年のバイオリン部門の年あたりから韓国、中国、台湾からの演奏者が上位入賞するようになり、近年は日本人の強力なライバルになって来ているようです。他方、興味深いのは作曲部門で、1953年に諸井誠さんが入賞すると、1977年にはオーケストラ曲の部と弦楽四重奏曲の部の双方で日本人が優勝するなどアジアからは突出した存在になっていることです。一昨年にも日本人がグランプリを受賞していますが、作曲というジャンルで日本人特有の才能があるのかどうか興味がありますね。
実は、エリザベート・コンクールは、クラシック音楽をこよなく愛したエリザベート王妃が1937-38年にユジェーヌ・イザイ・コンクールとして創設し、その後の中断を経て1951年に名前を変えて再開されたという経緯があります。再開の年の1951年にはバイオリン部門でかのレオニード・コーガンが、また、1956年のピアノ部門でウラジミール・アシュケナージがそれぞれ優勝するなど過去60年以上に亘って傑出した演奏家を輩出し続けています。東西冷戦の末期には当時のソ連が演奏者の亡命が続いたことに腹を立てて出場者を出さなかったという逸話まで残されています。こうした長い伝統を有する音楽コンクールで日本人が入賞することは同じ日本人として大変名誉なことですね。さて、今年はどうなるのでしょうか。
<歴代の駐ベルギー日本大使>
先日、私の3代前の駐ベルギー日本大使だった方がブリュッセルにお出でになり、彼の旧知の友人であるベルギー人の方々を大使公邸にお招きして懇談の機会を持ちました。昔話に花が咲いてとても楽しい夕べとなりました。私は、着任後間もない頃に歴代の駐ベルギー日本大使のことを調べていて、日・ベルギー両国が大使を交換するようになってから今日まで26人、戦後に限れば20人の日本大使が任命されていたことを知りました。江戸時代の最末期に外交関係を樹立してから7年後の明治6年(1873年)に日本の代理公使が発令されていますが、オランダからの兼任でベルギーに常駐していた訳ではありません。ベルギー常駐が始まったのは明治31年(1898年)ですが、「特命全権公使」の時代が続き、「特命全権大使」となったのは第一次世界大戦後の大正10年(1921年)に安達峰一郎大使が発令されてからです。戦前はこの安達大使を含めて大使発令を受けた方は6人に止まります。安達峰一郎大使は外交・司法の世界ではつとに有名な方で、常設国際司法裁判所の裁判官・所長を務め、第一級の国際法学者としても知られています。安達大使がベルギーに着任したのは第一次世界大戦の真只中の大正6年(1917年)10月のことですが、この時の肩書は「特命全権公使」でした。その後、前述のように、4年後に「大使」に昇格し、ベルギーを離任したのは昭和3年(1928年)2月のことで、10年以上もベルギーに公館長として在勤したことになります。ブリュッセル市内のホテルで開かれた離任レセプションにはベルギー皇太子や首相をはじめ各界指導者の多くが出席されたとのことですから誠に輝かしい歴史ですね。冒頭に述べた日本からの来客は23代目の大使だった方で、在任中やはり多くの功績を残されたことを知りました。「第26代目」も頑張りたいと思います。
|