大使のよもやま話

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第3回 初めて主催した天皇誕生日レセプション

2012年12月13日

    ベルギーではサンタクロースは12月6日に来るようです。この「聖ニコラ」の日には、親から子供へのプレゼントは勿論、大人どうしでもチョコレート菓子などの簡単なギフトを交換する習慣が見られます。ベルギー人に言わせると、サンタクロースの元祖は低地地方(現在のベルギー・オランダ辺り)で誕生しており、14世紀頃にこの地域で「聖ニコラ」の命日を祝う慣習が定着したようです。そう言えば、フラマン語(オランダ語)では、「聖ニコラ」のことを「シント・ニクラース」と発音しており、どうも17-18世紀頃に米国に移住した低地地方の人々が「聖ニコラ」の命日を祝う慣習を持ち込んだのではないかと見られます(そう言えば現在のニューヨークはその昔はニューアムステルダムと呼ばれていましたね)。祝賀の日もいつ頃からか12月6日から25日のクリスマスの日に変更され、「シント・ニクラース」も「サンタクロース」と発音されるようになったという訳です。この説を尤もらしくしているのは、低地地方の中心都市の1つであるアントワープ市の近くに人口7万人ほどのシント・ニクラース市があり、また、フランドル地方にはゲント市をはじめ各地に「シント・ニクラース教会」があることです。4世紀初め頃のローマ帝国・小アジアの地に現れたと伝えられる教父聖ニコラオスは今や世界中で子供にプレゼントを配る「白髭のおじいさん」になっていることを草葉の陰でどう思っているのでしょうか・・・。

<大使の年中最大行事>

121211_tentan_01     一昨日、大使公邸において恒例の天皇誕生日レセプションを主催しました。明仁天皇の誕生日は12月23日ですが、クリスマス休暇の時期と重なるために、世界各国にある日本の在外公館(大使館及び総領事館)では、12月の前半の適当な日を選択して祝賀レセプションを開催することにしています。今月、天皇陛下は79歳におなりになるのですが、何とベルギー国王アルベール2世と同年齢であり、両国の皇太子も同年齢というのはすごい奇遇ですね。
    さて、私にとってベルギーで主催する最初の天皇誕生日レセプションということで、少しだけ趣向を凝らしました。それは、行事の冒頭に日本・ベルギー両国の国歌を演奏することと、主催者である私から来賓の皆様を前にご挨拶をしたことです。一見当たり前のことのように思われるかも知れませんが、ベルギーで各国が開催するナショナルデー・レセプションでは、こうした式次第が含まれることはあまりありません。更に不思議なことは「主賓制度」がなく、接受国であるベルギー政府を代表して特定の政府高官が必ず出席するという習慣がないのです。私がかつて在勤したインドでは副大統領が各国のイベントに必ず主賓として出席していましたし、前任地であるベトナムの場合は閣僚クラスの方(時に副首相)がベトナム政府を代表して出席し、祝賀の挨拶をする習わしになっておりました。王国であるベルギーにおいて、この外交行事だけが妙に簡略化されている理由は一体何なのでしょうか・・・。
    なお、今回のレセプションに参加いただいたのは400名ほどのベルギー各界の指導者や有識者の方々、各国大使ら外交団のメンバー、そして在留邦人の代表の方々ですが、大使公邸のスペースが限られているために、来賓の皆様に窮屈な思いをさせてしまいました。真冬の行事とあって広い庭が使えないのが残念でした。

<ベルギー産業界の2人のプレジデント>

    先月末、着任挨拶を兼ねて、「プレジデント」の肩書を持つ2人のベルギー経済人とお会いしました。一人はベルギー経団連のデ・スメット会長、もう一人はワロン地域(フランス語圏)企業連盟会長のジャン・フランソワ・エリスさんです。
    デ・スメット会長を訪ねたのは11月28日。小雨の中、会長ご自身がビルの玄関で待ち受けてくれ、大変恐縮しました。会長は長年ルノーやフォルクスワーゲンなどの自動車業界で要職を務められ、今は会員企業5万社のトップに立ち、ベルギー産業界全体の利益のために骨身を削っておられます。この日も2013-14年の労働条件をめぐる労使交渉の真っただ中におられ、心労の御様子が窺がえましたが、私との1時間近くに及ぶ懇談の間、終始笑顔を絶やすことはありませんでした。労使交渉は「10人委員会」で行われているのですが、実際のメンバーはどういう訳か11人いるのだと大笑いしておられました。世に「ベルギー的妥協」という言葉があるそうで、間もなく何とか知恵を絞ってギリギリの合意が得られるだろうと楽観視しておられました。
    他方、エリス会長にお会いしたのはその2日前。ブリュッセル市内にあるAGCガラス・ヨーロッパ(日本の旭硝子)の本社に訪ねました。ワロン地域の産業はやや立ち遅れ気味ですが、2020年までの長期計画を踏まえて自律的な発展に努力したいとの強い意気込みを見せてくれました。AGCガラス・ヨーロッパはベルギーだけでも3千人を雇用しており、ガラス素材及び建築用・自動車向けのガラス製品を製造販売しています。エリス社長は旭硝子本社では常務執行役員の地位にあり、同社でただ一人の非日本人役員だそうです。欧州進出の日本企業の中には現地の方を社長にして企業活動を展開している会社が少なくなく、旭硝子もそうした会社の1つですね。

<カトリック大学と自由大学>

121211_tentan_02     昨日、ブリュッセルの東方30kmほどのところにあるルーヴァン大学を訪問し、マーク・ワール学長らと懇談する機会がありました。この大学は著名なカトリックの総合大学です。1425年に創建され、かの有名なエラスムスやメルカトールも教授陣に加わったことがあるそうですから、室町時代の足利学校がそのまま東京の有名大学に発展したようなものですね。現在の学生数は4万人以上で、外国人の留学生も6千人(うち日本人は56人)近いそうです。この大学を有名にしたのは、その教育・研究の質の高さもさることながら、「ルーヴァン危機」と呼ばれている1966~67年の大学紛争です。しかも紛争の主因がオランダ語とフランス語の言語闘争だったために、ベルギーにとっては国政レベルの大問題になったようです。ルーヴァン大学は、結局、使用言語をめぐって2つに分裂し、1970年以降、従来の大学施設ではオランダ語が授業言語に使用され、フランス語の授業のためにワロン地域(フランス語圏)に新たに大学施設が建設されました。ブリュッセルの南東30kmほどのところにルーヴァン・ラ・ヌーブという人口3万人ほどの小さな町がありますが、この町こそ上記の大学紛争の結果新たに出来た町なのです。住民の半数近くが大学生という文字通りの「学園都市」です。
    実は、ルーヴァン大学を訪問する数日前にブリュッセル自由大学(ULB)も訪問しておりました。日本大使の公邸はブリュッセルの南部、イクセルと呼ばれる地区にありますが、この公邸とはフランクリン・ルーズベルト通りという幹線道路を挟んで真向かう位置にこの自由大学があります。ベルギー独立直後の1833年に設立された自由大学は今やフランス語系の学生数が24000人(オランダ語系が1万人)という大きな大学に発展しています。学生の3分の1が外国からの留学生という国際色豊かな大学ですが日本からの留学生はわずかに23人(この半分近くが東京女子医大からの交換留学生)だそうで、少々寂しい思いがしました。お会いしたセルジュ・ジョーメン副学長は日本人学生を増やしたい意向で、日本の大学との交換留学取り決めをもっと締結したいと述べておりました。
    今回訪れたルーヴァン・カトリック大学、ブリュッセル自由大学とも授業言語の違いによってそれぞれ更に2つの別々の大学に分かれておりました。多重言語のベルギーならではの事情によるものですが、日本ではちょっと考えられないような状況ですね。

<アントワープの友人>

    今月8日から9日にかけての週末、前日の大雪が残る中、アントワープに1泊2日の旅行をしました。世界に名を知られたこの港町(人口49万人で、ベルギー第二の都市)はブラッセルからは北方にわずか50kmしか離れていませんので宿泊するまでもなかったのですが、多くの名所旧跡をゆっくり見て回りたかったのと、何よりも2年半振りに再会したベルギー人の友人が彼の自宅での夕食会に招いてくれたからです。この友人とは私の前任地であるベトナムのハノイで知り合いました。彼はベルギーの駐ベトナム大使で、家内を交えたお付き合いをしました。今は、彼もベトナムでの任務を終えて、故郷アントワープに戻り、法務大臣の外交顧問を務めています。また、この日の夕食会には東京勤務経験を持つ外交官である彼の従弟も同席してくれました。食事の席での話題はベルギーの内政から世界情勢まで多岐にわたり夜の更けるのをすっかり忘れました。
    それにしてもアントワープという街はすごいですね。旧市街を散策しているとその歴史の重みに圧倒されます。市の中心部にあるノートルダム大聖堂は14-16世紀に建てられたそうで、希有壮大な規模と123mあるという尖塔は旅行者のカメラには収まり切りません。数多ある美術館に展示されている美術品もすべて超一級品ばかりで、17世紀前半に活躍した世界的画家ルーベンスの家はまるでお城のような大邸宅でした。アントワープの絶頂期は16世紀だったようですが、その後、ダイヤモンドの加工業で栄え、現代はファッションの発信地としても知られています。ベルギーの最北端に位置するこの街はオランダ語圏に属し、去る10月の地方選挙では連邦政府及びフランス語圏からの一層の分離・自律を主張する政党が勝利して話題を提供してくれています。何とも興味の尽きない1泊2日の旅行でした。

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