大使のよもやま話

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第10回 17世紀初めに日本を訪れたベルギー人宣教師

2013年3月4日

yomoyama_010_football    先週の週末、ベルギーのサッカー・チームであるスタンダール・ド・リエージュから公式試合の観戦招待があり、小雪の舞う寒さの中、当地に来て初めてプロの試合を観て来ました。試合の相手はKRCゲンクで、リエージュから北に50kmほど離れたリンブルグ州第二の街(人口65千人)のチームです。スタンダールには3人の日本人選手がいる(「よもやま話」第8回参照)のですが、この夜に出場したのはGKの川島選手だけでした。試合は一部リーグの3位と4位のチームの対決とあって大いに注目を集めたのですが、結果は0-0の引き分けで、ホーム・チームのスタンダールの方に失望感が大きかったようです。私の臨席で観戦されたスタンダールのロラン・ドウシャトレ会長は普段は物静かな方なのですが、それでも時々「そこだ、攻めろ!」と叫んでおりました。試合内容としてはスタンダールが終始押し気味だっただけに残念な結果でした。それにしてもサッカー・ファンの熱狂振りはすごいですね。3万人の観客を収容出来るスクレッサン・スタジアムは、この日の寒さにも拘わらず完全な満席で、試合開始前から爆竹を鳴らして大騒ぎです。試合後も私の車はファンの人垣に囲まれて30分以上も身動きが出来ませんでした。ブリュッセルに帰着したのは深夜。いやはや、サッカーの観戦は結構大変ですね・・・。

<経済連携協定(EPA)をめぐるベルギー経済界との意見交換>

    先週、ベルギー経済省の企画を受けて、当地の産業界代表と日EU・EPAをめぐる意見交換を行いました。ベルギー側からは政府・民間の関係者が30人ほど参加されました。会合は経済省のデルポルト次官の開会挨拶で始まり、経済省と外務省の専門家の方がベルギーと日本との経済関係の現状や自由貿易協定を締結する意義などについて説明しました。続いて私から日EU経済関係の全体像に触れた後、日EU・EPA交渉に臨む日本政府の基本的な考え方を詳しく説明し、この協定が締結されれば日・EU双方にとって大きなメリットがあることを強調しました。その後の質疑応答では日本の非関税障壁の問題や政府調達の現状について質問があったほか、自動車業界の関係者からは自由化への懸念の声も出されました。また、繊維業界の出席者からは原産地規則の取り扱いについて質問がありました。日本政府としてはEPAを出来るだけ広範かつ野心的な内容のものにしたいと考えており、EU側からのあらゆる提案にオープンであると申し上げました。日本は海外からの工業製品に対する輸入関税を既に限りなくゼロにしており、EU側の関税の方が高いため、日本はEU側関税の引き下げに関心を有し、EU側は日本の非関税障壁の除去に交渉の焦点を当てています。本交渉は間もなく始まりますが、今回の会合のように、業界の関係者の生の声を聴く機会を今後も折々に設けたいと思います。

<企業訪問第5弾はテルモとカネカ>

yomoyama_010_terumo    先週、2つの日本企業を訪問しました。最初が医療機器メーカーのテルモ・ヨーロッパ社で、ブリュッセルの東30kmにあるルーヴァン市の郊外に工場があります。同社がこの地に進出したのは1971年で、当時は延々と農地が広がるだけの土地柄だったようですが、今は大小700社近くが集積する「ハースロード工業団地」になっています。テルモ・ヨーロッパ社の社員は1200人で、そのうち800人がベルギー国内で働いているようです。主な製品はカテーテルなどの心臓血管領域に関連するものですが、病院で使用する注射器や採血器などの製造販売も行っています。2011年の総売り上げは477百万ユーロ(約560億円)で、総額10兆円の医療機器市場を有するヨーロッパでは「中堅メーカー」といったところでしょうか。工場見学の折は衛生服や靴カバーを二重に装着した上に、滅菌用のエア・シャワーを浴びてから入域するという徹底振りで、これが「日本スタンダード」なのだそうです。医療機器の世界は日進月歩で、長い臨床試験期間を経て当局による承認を得るまでに時間がかかれば、それだけ製品寿命が短くなるとのことであり、また、付加価値の低い製品の場合は発展途上国の製品との価格競争が厳しく、先進国で製造を続けるのは難しいようです。ところで、日本のテルモ本社は1921年に北里柴三郎博士らが発起人となって創立されたそうですから、既に90年以上の社歴を有します。今や、海外での売上高比率が50%を超えており、国際的企業として大いに発展しているのは誠に立派だと思います。
yomoyama_010_kaneka    続いて、3日前にアントワープの東45km(ブリュッセルの北東60km)ほどのオエヴェル・ウェステルロ市(人口24千人)に所在するカネカ・ベルギー社を訪問しました。会社の設立は1970年(実質的な操業開始は1974年)で、現在の従業員数は320人。この工場では、カネエース、エペラン及びMSポリマーという3つの石油化学製品の生産が行われており、昨年度の総売り上げは273百万ユーロ(約320億円)だったようです。3品種のうち創業以来生産されているのがカネエースで、これは機能性樹脂の強化剤として使用されています。例えば、従来は塩化ビニールだけで製造されていたペットボトルの製造過程で一定量のカネエースを混合させると落ちても割れないような強度が得られるのだそうです。工場の中は、巨大なタンクと何百本というパイプが複雑に組み合わされているだけで、人の姿は全くありません。社員の皆さんは昼夜3交替制でコントロール・ルームに詰め、配管図が示されたパソコンの画面を操作するのが仕事のようです。石油化学の工場はどこでもこのようなものだそうで、通常の工業製品を製造している工場とはだいぶ趣の違う感じを受けました。

<プリンスの爵位を持つ貴族>

    先日、「プリンス」の爵位を持つベルギー貴族のご夫妻と夕食を共にしました。貴族の爵位については、上は公爵から下は男爵までの5段階があるのですが、ベルギーの場合、公爵の上に更に「プリンス」という最高位の爵位があって、8つの家系がこれを受け継いでいます。公爵との違いが分かりにくいのですが、ベルギー皇太子殿下が代々「ブラバント公爵」の称号を持つところからすると、どうも、ベルギー王家に直接繋がる家系は公爵や侯爵などの爵位を持ち、「プリンス」の称号はドイツ、ポーランド、オランダなど他国と所縁のある高貴な家柄に対して付与されているのではないかと思います。私が夕食をご一緒した方は、もともとはドイツの貴族で、17世紀に神聖ローマ帝国において侯爵の爵位を与えられていたようですが、ドイツで貴族制度が廃止された後に、領地がベルギー国境近くにあったためか、20世紀の初めにベルギーにおいて「プリンス」の称号を与えられたのだそうです。興味深いのはロシア貴族の場合で、ロシア革命の折に国外に亡命した貴族が国王を擁する西欧の国において引き続き貴族の爵位を認知されている事例が少なくないことです。ベルギーとオランダは今でも王国ですので、これら両国にはロシア出身の貴族が大勢います。勿論、21世紀の現代においては、貴族の爵位を持つことで格別の特権が付与されている訳ではないのですが、高貴な家柄であることを対外的に認知してもらえるという意味合いはあるようです。そう言えば、昨年10月にルクセンブルク大公国の皇太子殿下がベルギーの伯爵家の女性を娶られたことが話題となりましたが、婚姻関係においては貴族の家柄どうしの者が結ばれる事例は多いようですね。

<ニヴェルの町とハム・スール・ユール村>

yomoyama_010_nivelles     ブリュッセルの南40km、ニヴェルという人口25千人ほどの美しい町の中央広場に11世紀に遡る聖ゲルトルード参事会教会があります(現在の建築は戦後再建されたものの由)。この教会は、7世紀の半ばにフランク王国・ピピン1世の妻イッタ・ダキテーヌによって創建された大修道院(18世紀末に喪失)に付属していたと伝えられ、聖ゲルトルードという教会名も女子修道院長を務めたピピン1世の娘の名前からとられたものです。このピピン1世は、751年にカロリング朝を開いたピピン3世の祖父の祖父に当たり、カロリング家の開祖とされる人物です。因みに、かの有名なシャルルマーニュ(西暦800年に西ローマ皇帝としてバチカンで戴冠し、キリスト教ヨーロッパを築いた大帝)はピピン3世の子です。ニヴェルの町がフランス歴代王朝の基礎を築いたカロリング朝の「ゆりかご」と呼ばれる所以です。
yomoyama_010_ham    私が先日ニヴェルの町を訪れたのは、今から400年以上も前の1604年、ランベール・トルーヴェと名乗る一人の青年(当時19歳)がこの大修道院で学び、後にイエズス会の宣教師となって日本に送られて来るという因縁があるからです。彼は、1585年に、ニヴェルから更に南に40kmほど離れたハム・スール・ユールという小さな村(現在の人口は4650人)で生まれています。日本に入国したのは1612年、27歳の時で、徳川幕府による禁教令の中で宣教活動を行うものの2年で追放されます。しかし、彼の宣教の意志は固く、1617年に再び入国。数年間に亘って潜伏活動を行った後に長崎で逮捕され、1622年に火刑に処せられて殉教しています。トルーヴェ神父、37歳の時のことです。彼が生まれたハム・スール・ユール村は今でも同じ名前をとどめており、地平線が見えるほどの広大な農地の中に数百軒の家が古い教会を取り囲むように立ち並んで集落を形成しています。実は、この村は人口20万人の都会であるシャルルロワ市の南10kmに位置し、近在の40町村が毎年参加する伝統行事の「仮装軍事パレード」では常に主役的な存在であり続けているとのことです。この行事は17世紀に遡ると言われ、宗教改革の嵐が収まり切らない中、近在の村々から駆り出された農民兵が宗教関係者の行列を警護したのが始まりと伝えられています。宗教的情熱がひときわ強いハム・スール・ユール村で生まれ育ち、ニヴェルというカロリング朝発祥の地に建つ修道院で学び、最後は異国の日本で火刑に処せられて殉教するというランベール・トルーヴェ青年の一生は何とも凄まじいとしか言いようがありません。彼は、テオドロ・マンテルス神父(「よもやま話」第5回でご紹介した人物)に次いで日本に来た2人目のベルギー人ですが、日本の地で亡くなった者としては最初のベルギー人となるのです。

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