第13回 ベルギーに来た最初の日本人
2013年4月2日
先日、ベルギー野球連盟のレグリス会長と懇談する機会があり、この国の野球人口が3千人であることを知りました。勿論、皆さんアマチュアの選手ですが、1部から3部までのリーグに合計28チームが所属し、それぞれ年間をとおして試合をしているそうです。この中、一部リーグは8チームから成り、4月から9月まで毎週日曜日にダブル・ヘッダー(2試合)をこなし、正味5ヵ月(試合数は総当たりで42試合)の後に上位2チームによるベルギー・シリーズを経て優勝チームが決まるとのことです。近年はアントワープの「ホボケン・パイオニアーズ」が常勝しているようですが、ヨーロッパでのチーム・ランクは30位前後だそうですので、まだまだです。偶々、先の週末にアントワープ市において今季最初の国際大会であるイースター杯4ヵ国対抗戦が開かれ、私は始球式を依頼されました。参加したチームはベルギーから「モーツエル・スターズ」、オランダとフランスの強豪チーム、そしてフィンランドのナショナル・チームです。会場となったのはアントワープ空港の南に隣接したルヒトハヴェンレイ球場ですが、内外野共に観戦者用のスタンドはなく、日本で言えば草野球場といった感じでした。4チーム総当たりの結果、この大会で優勝したのは3戦全勝のフランスのチームで、「モーツエル・スターズ」は2勝1敗で2位でした。そもそもベルギーで野球のリーグ戦が行われていること自体ベルギー人でも知る人は少なく、在留邦人の間で話題になることもありません。ところが野球(勿論、硬式球を使用)をやっている当のベルギー人青年たちは大真面目です。ヨーロッパで野球と言えばオランダとイタリアしか思い浮かびませんが、ベルギーは1954年に最初のヨーロッパ選手権を主催した国であり、1967年には優勝したこともあるのです(尤も、昨年の大会は9位で、下から数えて4番目でしたが・・・)。レグリス会長は、ベルギー野球にとっては選手の数を増やすことより現在プレーしている選手たちの質を向上させることが優先課題であり、良いコーチや審判を確保することすら難しいのが実情であると寂しげに語ってくれました。ガンバレ、ベルギー野球!!
<エルネスト・ソルベという立志伝中の人物>
私の住居のすぐ近く、カンブルの森の入り口に当たる場所に、石の上に腰を下ろして物思いに耽る一人の紳士の彫像が立てられています。ほぼ等身大の人物像で、台座には「国家委員会1914-18の創設者エルネスト・ソルベ」と刻銘されています。この人物は19世紀末に化学製品の製造販売で巨万の富を築いた「ソルベ財閥」の創始者であり、第一次世界大戦中にドイツの占領下で苦しむ同胞を救済すべく私財を擲った経済人としてベルギーでは知らぬ人のいない英雄なのです。彼は製塩業を営む父親の下で育ち、18歳の時に肋膜炎を患って大学進学を断念、叔父の営むガス会社で奉公を始めます。1861年、22歳の時に、ある偶然の重なりからソーダ灰を科学的に量産する製法を発見し、これを使って石鹸やガラス、アルミニウム、繊維素材など様々な化学製品を工場で大量に製造する道を切り拓くのです。25歳の時に弟と共同で起業した彼は、最初の10年の間に次々と新たな化学品の製法を確立し、海外にも多くの工場を設立していきます。その後は世界的企業に上り詰めるのみで、彼の後半生をくどくどと語る必要はないでしょう。「金儲けは手段であって目的ではない」と常日頃から語っていた彼は、企業の社会的責任を自覚し、夫人とともに貧民救済や学術振興などの社会貢献事業に熱心に取り組んだ事実は特筆に値します。1914年、エルネスト・ソルベが76歳の晩年を迎えた時に第一次世界大戦が勃発、上述の通り、祖国救済に最後の情熱を傾けるのです。21世紀の今、ソルベ財閥は更に業容を拡大し、化学業界はもとより、プラスチック業界でも重きをなすに至っています。エルネスト・ソルベ氏の孫の孫に当たる世代が今でも会社経営に関わっており、ソルベ一族に名を連ねる婦人の一人は日本との友好団体の幹部を務めています。ベルギー人の作家が著したある書物に「ソルベ氏が製造したキシレンは奈良・東大寺の木造保存剤として使用されており、これなくば当該歴史的建造物はこの世から消滅していただろう」との記述があります。ことの真偽はともかく、世界は色々なところで繋がっているのだと感じます。
<ベルギーの日本人留学生>
先月末、日本からベルギーの各大学や専門学校に留学している学生(及び先生)たち50名ほどを大使公邸に招いて「激励会」を開催しました。ブリュッセルの王立音楽院に留学している学生によるピアノとヴァイオリンの演奏もあり、楽しい夕べとなりました。ベルギーに留学している日本人学生の総数は正確には把握し切れないのですが、おそらく100~150名くらいだろうと推察されます。日本から欧米への留学となれば圧倒的に米国と英国、そしてフランスということになるので小国ベルギーへの留学生が少ないのはある意味で当然なのでしょうが、中国のようにルーヴァン・カトリック大学(KUL)に対してだけで700名もの留学生を送り込んでいる例があることと比べると少々残念な気がします。ベルギーの場合、クラシック音楽を含む芸術分野に加え、特に理工系の教育に強みがあり、英語で教育を受けることも可能なので,各大学とも学生総数の30%前後が外国からの留学生という高い割合になっており、日本の大学に比べ「国際化」は相当に進んでいるようです。わが日本の若者にももう少しベルギーに注目して欲しいと思います。
<ベルギーとチョコレート>
先の週末、ベルギー・チョコレートの有名銘柄の1つであるヴィタメールのポ-ル・ヴィタメール社長からブリュッセル市内グランサブロン広場に面したお店にお茶のお誘いがあり、祖父の代からのお店の歴史や日本との関わりについて興味深いお話を伺うことが出来ました。私はヴィタメールの場合はチョコレートが本業で、洋菓子は副業だと思い込んでおりましたが、実際にはその逆で、1910年に祖父のアンリ・ヴィタメール氏が開業したのは「パン屋」だったのだそうです。戦後、2代目になって菓子パンから洋菓子へと商品の幅を拡げ、チョコレートの製造・販売を始めたのは1985年、3代目のポール・ヴィタメール氏になってからのことです。店の場所は100年前からずっと同じ場所にあり、店に隣接していた住居が1995年から軽食も可能な「ヴィタメール・カフェ」になったのが唯一の変化だというから驚きです。しかも、ヴィタメールは品質への強い拘りから基本的に商品を海外に輸出しておらず、店も出していないのですが、唯一の例外が日本です。現在、日本にはヴィタメールの店舗が全国に16あり、そのうち東京だけで6店舗あります。ただ、これらの店舗を運営管理しているのは(株)エーデルワイスで、1990年頃、ヴィタメールに目を付けた比屋根毅社長(現会長)が同社の洋菓子・チョコレート部門として誘致したようです。日本で販売されているベルギー・チョコはほとんどが冷凍保存状態で輸入されているようですが、ヴィタメールは冷凍を好まないために製造技術そのものをエーデルワイスに移転して日本で製造販売しているのです。2代目ヴィタメール氏と比屋根社長の深い絆が可能にした奇跡と言って良いかも知れません。
<ベルギーに来た最初の日本人>
この「大使のよもやま話」(第5回と第10回)で日本に来た最初のベルギー人のことに触れましたので、今回は、ベルギーに来た最初の日本人のことを紹介したいと思います。ただ、こちらは歴史文献が必ずしも全て揃っている訳ではないので、正確性に欠けるかも知れません。特に、幕末の密航者やいくつかの藩が個別に派遣した留学生などの動向は把握し切れていません。そういう前提でお話しすると、おそらく、1865年7月にロンドンを経てベルギーに来た薩摩藩派遣の使節団の事例が記録が残っている最初の日本人のベルギー訪問ではないかと思われます。随員の中には五代友厚など明治期に名を馳せる人物も含まれています。ただ当時はまだ徳川幕府による海外渡航禁止令が解かれていませんでしたので、使節団一行は脱藩の形式をとり変名を用いての密かな渡航だったようです。ところが、使節団一行のベルギー滞在は甚だ充実したもので、ブラバント公爵(皇太子)に拝謁しているほか、外務省高官と何度も面会し、薩摩・ベルギー商社設立の契約書に調印したりしています。更に一行は2ヵ月近くに亘るベルギー滞在中、リエージュ、アントワープ、ゲント、ナミュールなどの地方都市まで足を延ばし、製鉄所など多くの産業施設を視察しています。当時のベルギーは英国に次いで産業革命に成功し、その経済力は多くの欧米諸国を凌ぐほどであり、五代友厚が日記に書き残したように「ベルギーは小国ながら国中富盛にして国政の充実安定したる国」だったのです。先の商社設立計画は徳川幕府が翌1866年にベルギーと友好通商航海条約を結び正式に国交を開いたことなどから結局実現しなかったのですが、幕末という混乱期にこうした対外接触が行われていたことは驚きですね。
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