第15回 モンス市にまつわる2つの話題
2013年4月22日
早いもので私のベルギー在勤も半年が過ぎました。この間、気候的にはずっと冬が続いていたような感じで、些か閉塞感のある毎日でした。報道によれば、この冬(特に3月)は半世紀振りの寒さだったようで、良く雪も降りましたし、雨天・曇天の日も多かったように思います。他方、天気が悪かった分、仕事には専念出来て、多くの人と知り合いになり、友人も出来ました。特に、ベルギーの政界、経済界そして大学や報道関係者と交流を深めることが出来たのは幸いでした。この「大使のよもやま話」も隔週のつもりで書き始めたのですが、広く情報を共有したいと思うことが多く、最近は10日毎にホームページにアップするようになっています。本稿を毎回読んでいただいている方は既にご存じのように、私は地方訪問を頻繁に行っており、その都度、日本やベルギーの地元企業を訪問するようにしています。これまでに訪問した企業数は22社(うち日本企業は14社)に及んでおり、こうした活動はこれからも続けたいと思っています。最近はベルギーに関するいろいろな本を読み漁っていますので、いずれその中で見つけた面白い話を皆様にご紹介しようと思います。乞う、ご期待。
<ラスムセンNATO事務総長の訪日>
先週、ブリュッセルに本部があるNATO(北大西洋条約機構)のラスムセン事務総長が日本を公式訪問し、私はその接遇に当たるために帰国しました。NATOの事務総長が訪日するのはこれが5回目で,前回は5年半前のことになります。ラスムセンさん自身はデンマークの首相を務めていた折に2度訪日したことがあるようです。ただ、今回は初めて週末をはさんだ訪日となったために、日曜日の午前に京都で金閣寺と清水寺を見学する日程をアレンジすることが出来ました。好天にも恵まれ、春爛漫の京都を満喫してもらえたようです。翌日は東京で安倍総理や小野寺防衛大臣と会談した他、岸田外務大臣とは会談に続いて夕食を共にされました。安倍総理との会談では日・NATO関係に関する「共同政治宣言」について合意し、署名式も行われました。国際的な安全保障環境が大きく変化する中で、日本とNATOが協力関係を深めることは有意義なことだと思います。なお、この機会に、私は日本政府の「NATO代表」に任命されました。私としては、駐ベルギー大使としての日々の仕事に加え、「NATO代表」としても大いに職務に精励したいと思います。
<マラリア撲滅運動とアストリッド王女>
現在、ベルギー王室のアストリッド王女が日本を訪問中です。アストリッド王女は現国王であるアルベール2世陛下の御長女で、フィリップ皇太子殿下の妹君に当たられます。今回の訪日は、ロールバック・マラリア・パートナーシップ(RBM)の特別代表としてご自身が熱心に取り組んでおられるマラリア撲滅運動への支援を要請するためです。世界保健機構(WHO)の報告によれば、アフリカを中心に毎年2億人を超えるマラリア患者が出ており、死亡者も60~70万人(このうち86%が5歳以下の子供)に及ぶそうです。こうした状況を改善するために毎年20億ドル近い国際支援が行われているのですが、必要資金の半分にも満たないというのが実情です。かつて、ベルギー赤十字の総裁も務めたことのあるアストリッド王女はマラリア問題への国際的な関心を喚起し、必要な資金を集めるために世界各国を奔走しておられます。日本も厳しい財政事情にありますが、資金協力への国際的期待はますます高まっているようです。
<アンゲレール美術展とユックル区長>
先日、ブリュッセル南部に位置するユックル地区(人口8万人)の公共施設で女流画家イブ=マリー・アンゲレールさんの作品展が開かれ、私も前夜祭のイベントに来賓として招待されました。「星の色彩」と名付けられた作品展に出展された30近い作品は全て抽象画風なものなのですが、夜空の星の美しさに触発されたというこれらの作品は、色彩のあざやかさに特徴があります。アンゲレールさんは、父親が外交官でアフリカ勤務が長かったためにご自身も若き日々をアフリカで過ごし、その影響が作品の色使いに表われているような気がしました。これらの作品は即売されるそうで、売上金の一部を原発事故で被災した福島の子供たちの支援に向けられるとのことでした。ところで、この前夜祭の共催者であったユックル区長のアルマン・デ・デッカーさんは上院議員でもあり、外交安保委員会に所属しています。かつて上院議長も務めたという大物政治家なのですが、そういう方が区長を務めているところがベルギー政治の面白さですね。
<モンス市と聖女ウオドリュ>
ブリュッセルの南西65kmほどのところにエノー州の州都モンス市(人口91500人)があります。古代ローマ時代の文献に北方ガリア地方の町の1つとして登場するようですが、ベルギー人にとっては7世紀に聖女ウオドリュが修道院を建て、中世にはエノー伯爵の支配する城郭都市として発展した町として知られているようです。ただ、その後の歴史を振り返ると、フランスとの国境近くに位置することから17世紀の末にルイ14世に侵略され、その2百年後にはフランス革命軍に支配され、更に第一次世界大戦時には英国やカナダから派遣された軍がドイツ軍と市街地で戦闘を展開するという悲惨な運命を辿っています。今日、街の中心地にそびえ立つ聖女ウオドリュ参事会教会(15~17世紀に建立)も何度か甚大な被害を受けたようです。今日、教会の中に入ると聖女ウオドリュを描いた絵画の直ぐ近くに18世紀末に作られた「黄金の引き車」が展示されています。毎年5月の聖霊降臨祭直後の日曜日にはこの車を山車にして大規模なパレードが行われるようです。私が興味を持ったのは聖女ウオドリュという女性にまつわる故事です。彼女は7世紀の人で、高貴な家に生まれ、普通に結婚し、4人の子供をもうけたようです。子供が成長すると夫は出家してしまい、彼女も修道院を開いて神に祈る日々を送るのですが、何とそうした折に魅力的な男性である聖ジスレインと出会い、地下道で逢引きを重ねた上に不倫関係に陥ったと伝えられているのです。不倫関係にあった男女が後にそれぞれ聖人として祀られるというのは私のような部外者にはどうも分かりにくく、不可解な感じがします。更に、モンス市にはもう一人、聖ジョルジュという守護聖人がいるようです。1つの街に2人も守護聖人がいるのは何故か。私のモンス市訪問は謎だらけで終わってしまいました。
<モンス市とニューヨーク>
もう1つ、モンス市について面白い話を聞きましたのでご紹介します。ニューヨークが、17世紀当時、ニューアムステルダムと呼ばれていたことは良く知られており、一般にはオランダ人がこの地に最初に入植したと思われています。実際のところ、1624年5月(ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号でニュープリマスに到着した4年後)にマンハッタン島に到着した船はオランダの西インド会社所属のニュー・ネザーランド号ですので、こうした誤解が生まれるのは当然です。また、17世紀の初めまでは現在のオランダもベルギーも同じスペイン領であり、1つの「低地地方」でしたので、両者を区別することに意味はなかったのです。では、何故、19世紀以後の歴史において、ニューヨークに最初に入植したのがオランダ人ではなくベルギー人であったと特定されるようになったのかと言えば、1830年にベルギーが独立し、ニュー・ネザーランド号に乗船してマンハッタン島に上陸した32家族の全員が後に独立国となったベルギーの領内の出身者であったと明確に区別されるようになったからです。彼らの多くが実はモンス市の住人で、当時の宗教改革の嵐の中でカトリックからカルヴァン主義に改宗した人たちです。1924年にはニューヨークで入植settlement3百年祭が大々的に祝われたようですが、その際にニューヨーク州議会が採択した記念決議の第3項に「ニュー・ネザーランドの入植者はベルギー人の32家族から成り、その大半がワロン地域の者であった」と明記されているとのことです。ワロン地域とは、勿論、ベルギーの南半分を占めるフランス語圏のことで、モンス市もこの地域にあります。さて、11年後の入植4百年目はどのように祝賀されるのでしょうか・・・。
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