最終回 さらば、ブリュッセル!!
2014年9月8日
いよいよ今日の午後、私たち夫婦はパリ経由で日本に帰ります。2年に満たない短いベルギー勤務でしたが、充実した日々を過ごせたのは本当に幸せでした。在留邦人の方々、ベルギー人の友人・知人そして外交団の仲間たち全員に心から感謝します。そして、「大使のよもやま話」という私の拙いブログに毎回のように目を通してくれた多くの読者にも御礼を申し上げます。東京に戻った私は、暫く外務省に籍を残したのち、退官することになります。41年半に及ぶ外交官生活に別れを告げるのは少し寂しい気持ちがしますが、同時に「自分に出来ることは全てやった」という相応の満足感もあります。2年間に亘るフランスでの語学研修の後、38年前にベルギーで始まった私の外交官生活は今日ベルギーで終わります。2度のパリ勤務やインド、エジプト、米国、ベトナムで過ごした日々は私にとって全て忘れられない良い思い出です。しかし、そうしたキャリアの中でもベルギーでの合計4年の生活には特別のものがありますね。次は一旅行者として再びベルギーに戻って来たいと思います。その日が一日も早いことを願うばかりです。「さらば、ブリュッセル」。パリへ向かう車の中から私はきっとそう叫ぶと思います。皆様、さようなら。
<NATO首脳会議と私>
先週、英国南西部のニューポート近郊でNATO首脳会議が開催され、私は日本代表として出席しました。この首脳会議は2年に1度の頻度で開催されており、前回は米国のシカゴで開催されました。勿論、日本はNATOのメンバー国ではありませんので、会議全体の議論に参加する訳ではありません。ただ、日本は、「パートナー国」として、これまでNATOが主要な軍事作戦を展開してきたアフガニスタンにおいて警察官の給与支払いや教育面で資金援助を行い、間接的に連携して来ました。また、新たに始まる軍民の相互運用性向上のための活動にも参加することにしていますので、これらが議題となる会合での議論に加わったのです。本来であれば、(安倍総理は無理としても)外務大臣か防衛大臣に参加していただければ良かったのですが、生憎と日本では同じ時期に内閣改造があり、政治レベルの出席が叶いませんでしたので、「NATO日本代表」でもある私が日本政府の首席代表として首脳会議に臨んだという次第です。
日本が参加したアフガニスタンに関する会合では本年末に終了するNATOの軍事作戦を引き継ぎ明年から新たに始まる「確固たる支援」と呼ばれるアフガニスタン治安部隊に対する教育訓練、助言活動の概要を議論しました。日本は引き続き警察官の給与支払いや識字活動に対する支援を行う決意を表明しました。ただ、今回のNATO首脳会議を支配した中心テーマはウクライナ情勢への対応と対ロシア関係のあり方、そしてスンニ派過激組織「イスラム国」をめぐる問題だったように思います。世界情勢が混迷の度を深める中、NATO自体が新たな挑戦に直面しており、個々の加盟国においても一層の防衛努力(関連予算の増強)が求められています。「積極的平和主義」を標榜する日本としても、世界の平和と安定に貢献するためにはNATOと一層緊密に連携する必要がありそうですね。
<離任レセプションでの「別れ」>
 先月末、大使公邸において離任あいさつのレセプションを開催しました。ベルギー人の親しい友人や外交団の若干の仲間たち150人ほどをお招きし、在勤中の交友にお礼を申し上げました。当日の夕刻からあいにくの雨模様となり、お出でいただいた方々には不都合をおかけしました。レシービング・ラインで来着された方々と次々にご挨拶したのですが、長い待機列が出来てしまうので、一人ひとりの客とゆっくりお話が出来ないのが実に残念でした。皆様にはいつの日かベルギーで再会したいという希望をお伝えしたのですが、近く日本訪問を予定しているという何人かのベルギー人の友人もいて、東京で再会する約束も出来ました。 私は2年弱の在勤中に大使公邸で数多くのレセプションを開催して来ましたが、「離任レセプション」というのは全く別物ですね。もう二度とお会い出来ない方もおられるかと思うと実に寂しい気持ちになります。海外を転々とする外交官の宿命のようなものですが、しかし、それぞれの過去の勤務地に行けば友人に再会出来るかも知れないという楽しみも残ります。ベルギーでは格別に多くの友人が出来ましたので、早い機会に「再会の希望」が現実のものになることを願います。
<モンペリエへの追想旅行>
先月末、ベルギーを離れる前に是非とも再訪したいと願っていた南仏モンペリエへの旅行(3泊4日)を敢行しました。私は、20歳台半ばの頃に外務省の研修生としてモンペリエ大学に2年間留学しており、それ以来40年間近く再びこの街を訪れることはありませんでした。最近になって、ある偶然から、ブリュッセルからモンペリエに直行便が飛んでいることを知り、急遽思い立って「青春の思い出の地」を再訪することにしたのです。往路の機内では昔の思い出が次々に甦り、懐かしい気持ちに満ち溢れてモンペリエ空港に降り立ったのですが、待ち受けていたのは大きな失望でした。街の様子は余りにも大きく変貌し、私の記憶に残っていた「昔のモンペリエ」とは全くかけ離れたものになってしまっていたのです。 近代化が飛躍的に進みモダンな路面電車すら走る市内の風景は私の思い出をあざ笑っているようで、記憶の糸を手繰ることが全く出来ませんでした。40年の歳月は余りにも長かったのです。私が学んだ文学部(ポール・ヴァレリー大学)はモンペリエ市の北方郊外にあるのですが、昔は周辺にほとんど建物がなく更地に校舎をいくつか並べたような見晴らしの良いキャンパスだったのですが、今では大学を囲むようにアパートや高級住宅が密集し、学内の校舎の多くも立て替えられるか新設されていて、「懐かしの学び舎」は見事に消えてなくなっていました。
ただ、留学時代にフランス人の学生仲間とドライブを楽しんだカルカソンヌやエッグ・モルトといった近郊の城郭都市を訪ね、また、海水浴をしたグランド・モットの海浜リゾート地で地中海の海原を眺めていた時に昔の記憶がわずかに戻ってきたのは幸いでした。モンペリエからの帰路のフライトの中で感傷に耽っていた私の脳裏に浮かんだことは、モンペリエの街が大きく変貌したことを憂う前に、当時20歳台半ばの若者だった私自身が、今や60歳台半ばの老人に変貌していることを先ず思うべきであったという単純な事実でした。時の流れというものは実に残酷であると思わずにはいられませんね・・。
<フィリップ国王陛下への離任のご挨拶>
先週、フィリップ国王陛下をブリュッセル王宮にお訪ねし、離任の御挨拶をしました。2年前の着任時にはアルベール2世国王陛下に信任状を捧呈しましたので、時代の変化を感じました。日本とベルギーの関係を振り返る時、両国の皇室・王室が友好関係の発展に果たしてきた役割の大きさを思わずにはいられません。特に、フィリップ国王陛下は皇太子になる1993年以前から日本を訪問されており、皇太子時代には4回に亘り経済ミッションを率いて訪日されるなど私が知る限り合計で9回も公式・非公式に日本を訪問されています。私が大使としてベルギーに在勤している間には昨年春にアストリッド王女(国王陛下の妹君)が訪日されただけで頻繁な相互の御交流はなかったのですが、2016年の日白外交関係樹立150周年に向けて、新たな相互御訪問が実現するものと期待されます。
なお、エリオ・ディ=ルポ首相には先述のNATO首脳会議の折にご挨拶が出来ました。同首相には様々な機会に何度もお会いしましたが、最後の出会いが英国での国際会議の場になったのは何とも不思議ですね・・。
<150周年祝賀に寄せる想い>
さて、その150周年を記念する祝賀事業について、最近、関連の準備作業が始まっています。1866年に開始された日白両国の外交関係は第二次世界大戦の一時期を除き着実に発展して来ました。とりわけ、19世紀の後半には明治維新を経た日本が新たな国家体制を整備し、近代化を図るに当たって当時世界有数の強国であったベルギーから多くの支援を得たことは記憶すべきことです。さらに、20世紀の初め、第一次世界大戦で苦境に陥ったベルギーに対して日本で深い同情が集まり支援の手が差し伸べられましたし、1923年の関東大震災の時には逆にベルギーの方から被災者に対する巨額の義捐金が寄せられました。第二次世界大戦後は欧州統合の拠点となったベルギーに日本の経済界の関心が集まり、1960~70年代から日本企業による対ベルギー投資が始まっています。私は、こうした両国の交流を記念して、2016年には是非とも盛大な150周年記念事業を実施したいと思い、その準備に着手したのですが、残念ながらその途中でベルギーを離れることになりました。これからのことは、私の後任者及び同事業に関係するすべての皆様の尽力に期待せざるを得ません。私は、2016年に一旅行者としてベルギーに戻ってくることを今から楽しみにしています。
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