ベルギーの街角から:日本大使からの一言

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第9回 ベルギーでの第一次世界大戦終戦100周年

ベルギーでは、11月11日は、第一次世界大戦終戦記念日として国の休日となっていますが、100周年に当たる今年は、特別な記念日となりました。

歴史を少しだけ振り返ってみましょう。
建国に当たって近隣国から中立を保証されていたベルギーでしたが、1914年7月末から次々にヨーロッパ主要国を巻き込み第一次世界大戦が勃発すると、8月2日、ドイツから軍隊の国内通過を認めるよう要求されました。ベルギーがこれを拒否すると、8月4日、ドイツ軍が東部国境を突破して侵攻して来ました。ベルギー軍は各地で抵抗し、特にリエージュ、ナミュール、アントワープなどでは激しい戦闘になりました。しかし、規模と装備ではるかに上回るドイツ軍に敵わず、国土の大部分が占領されました。
 1914年9月になると、西フランダース州西部からフランス北部にかけて戦線が膠着し、ドイツ軍とフランス及びイギリスを中心とする連合軍の双方が戦線に沿って塹壕を構築し、一進一退を繰り返しました。このような持久戦がおよそ4年間にわたって続き、双方に夥しい死傷者が出ました。特に、西フランダース州のイーペルでは、数度にわたって、第一次世界大戦の中でも最も激しい戦闘が繰り広げられ、多くの犠牲者が出ると共に、イーペルの市街は跡形もなく破壊尽くされました。
 1918年秋になると、ベルギーは、連合軍とベルギー軍とによって、西側から少しずつ解放されて行きました。その後、ドイツと連合国との停戦協定が締結され、11月11日午前11時をもって停戦が発効し、第一次世界大戦は終結しました。しかしながら、4年以上にわたり戦場になるとともにドイツによる占領下に置かれたため、占領に対する抵抗も含め、人口の流出と国土の荒廃は著しく、ベルギーが第一次世界大戦の傷を癒すにはその後長い期間を要しました。

このように、第一次世界大戦はベルギーに対して言い尽くせぬ程の大きな影響を与えたと言えるでしょう。今日でも、単に「大戦(the great war/ la grande guerre)」と言うと、ベルギーでは、第一次世界大戦のことを指します。

11月11日午前、ブリュッセル市内の無名戦士を祀る記念塔前のコングレ広場において、フィリップ国王・マティルド王妃両陛下のご臨席の下に、第一次世界大戦の終戦100周年を記念する式典が開催されました。式典には、議会、政府、裁判所などベルギー各界の代表と各国の代表が参列し、その中の一人として私も参列しました。
 フィリップ国王陛下は、第一次大戦でベルギーのために戦死した無名戦士に対し敬意を表するとともに、自分達には犠牲となった人々の記憶や彼らが死守した価値を語り継ぐ責任があり、全ての人が平和な世界を築くために関与することが求められているという演説を行いました。
 停戦が発効した11時には、参列者一同が犠牲者に対し黙祷を捧げました。その後、国王・王妃両陛下に続き、ベルギー各界の代表者が次々に花輪を捧げました。あいにく時折小雨が降り、市内を見下ろす高台にあるコングレ広場には冷たい風が吹き寄せていましたが、式典は終始厳かに執り行われました。この模様はテレビを通じてベルギー全土に同時中継され、多くの国民が参列者と体験を共有しました。


©Ritchie Sedeyn


この他、記念日の当日及びその前後には、ベルギーの各地で第一次世界大戦終戦100周年を記念する様々な催しが行われました。

11月9日には、イーペルの中心に新設されたイーペル博物館において、広島平和記念資料館の協力を得て、「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」の開会式が行われました。ここには、ヤン・デュルネ市長をはじめとするイーペルの方々や志賀広島平和記念資料館長とご一緒に、私も出席しました。

第一次世界大戦終戦100周年という特別な機会に、第一次世界大戦の激戦地で、世界史上初めて毒ガスという大量破壊兵器が使用されたイーペルにおいて、広島、長崎に世界史上初めて原子爆弾が使用されたという事実を振り返り、戦争の悲惨さを改めて想起する展覧会が開催されることは、極めて意義深いことに思えてなりません。どの様に悲惨で厳しいものであっても、過去の事実を共有し、後世に伝えていかねばならない、という思いを強く抱きます。
 開会式でのスピーチでは、私から出席した方々にこうした思いをお伝えしました。開会式が終了した後、出席者の皆さんと共に、イーペルの方々が作った折鶴で飾られた展示室で、原爆の惨禍を伝える様々な展示を見学しました。


広島平和記念資料館提供


11月11日の午後には、ブリュッセルの北東に当たる、フラームス・ブラバント州のアールスコートで、平和の鐘の除幕式が行われました。アンドレ・ペーテルス市長からの招待を受け、私もブリュッセルから駆けつけました。
 アールスコートは、1914年8月に抵抗することなくドイツ軍に占領されましたが、占領軍の司令官が何者かに射殺されたため、その報復として、当時の市長及びその15歳の息子を含む156名又はそれ以上の市民が処刑され、町に火がかけられました。更に、全ての市民が移住を強制され、その結果、中世以来の町は荒廃し、復興に長い時間を要しました。
 昨年以来、アールスコートでは、第一次世界大戦終戦100年の記念に、平和を願う組み鐘カリヨン(carillon)を作成し、市の中心にある聖母教会の鐘楼に設置する計画が進んでいました。市長から私に対し、この中に日本の鐘を加え、日本と共に平和を祈りたいという要請をいただきました。アールスコートの悲劇に日本は全く関係してはいませんが、共に平和を祈るという要請に賛同して、私の名前と共に日本語で「永遠の平和」と刻んだ鐘をカリヨンに加えることが出来ました。
 除幕式を祝うアールスコート市民のパレードの後、日本でも演奏している著名なカリヨン奏者ヨー・ハーゼンさんが演奏を始めました。すると、聳え立つ中世ゴシック様式の鐘楼から、アールスコートの町中に平和の鐘が清らかに響き渡りました。


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