第五回 「なぜ、今、第一次世界大戦なのか?」
2014年12月1日
約1ヶ月前のことになりますが、10月28日、当国ニーウポールト、イーペルで行われたベルギー政府主催の「第一次世界大戦100周年記念行事」に出席しました。今回は、その印象などについてお話ししたいと思います。
日本では、周年行事と言えば、第二次世界大戦終結70周年にあたる、来年2015年が語られることが殆どでしょう。一方、ヨーロッパでは、今、周年行事と言えば、やはり、本年2014年の「第一次世界大戦100周年」であり、また、「ベルリンの壁崩壊25周年」です。
第一次世界大戦は、1914年6月28日のオーストリア皇太子の暗殺に端を発し、同年7月28日にオーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告したことをもって開戦しました。1918年11月11日の休戦協定締結まで4年4ヶ月近くに亘って行われた戦闘によって、双方で戦死者約1000万人弱、行方不明兵士を入れると約1750万人以上と言う、夥しい犠牲者を出したとされています。
実は、ベルギーは第一次世界大戦の主戦場の一つです。細かく言えば色々ありますが、要は、戦闘は一進一退であり、最も激しい戦闘が行われた前線は4年以上の戦闘を通じて殆ど動かず、その大部分が、北はベルギー西部を縦断し、フランス北東部をなぞって、スイスの北西部国境まで続く地域にありました。逆に言えば、ドイツ国内での戦闘は殆どと言って良い程無く、英国他のコモンウエルス諸国の多くの戦死者も、以上述べた地域で命を落としたのです。
本年から2018年の休戦100周年までの間、ベルギーでは、いくつかの記念式典が予定されています。ベルギーでの開戦は、1914年8月4日ですが、その日を記念する式典は、去る8月4日にリエージュ他で行われました。今回10月28日に行われたのは、いわゆる「第一次イーペル戦(1914年10月19日~11月22日)」100周年の記念式典です。
ベルギーの北西部に位置する都市イーペルは戦略的要所と位置づけられ、第一次世界大戦を通じていくつかの戦いが行われ、数多くの人命が失われた地です。この辺りはイゼール平原と呼ばれ、地形は平坦で、海抜も低いことから、ベルギー政府は意図的に堤防を決壊させ洪水作戦を敢行しました。その結果、地形が完全に変わってしまうほどの影響がありました。また、当時の戦いは塹壕戦が主であったため、冬を迎える中で、両軍の兵士は想像を絶する劣悪な環境に置かれたと言います。10月28日のニーウポールトの式典では、これを念頭に、記念碑の前に小さな人工池が作られ、その中でパフォーマンスが行われました。
イーペルは、また、第一次世界大戦で人類史上初めて化学兵器が大規模に使われた地としても知られています。それは、翌1915年4月22日~5月25日に行われた「第二次イーペル戦」の際のことです。化学兵器の一つであるマスタードガスを別名イペリット(Yperite)と呼ぶのは、このことに起因するのです。
それでは、このような第一次世界大戦100周年記念行事に、なぜ日本大使である私が呼ばれるのでしょうか。それは、日本が連合国の一員として第一次大戦に加わったからなのは、皆さんも御承知の通りです。でも、その結果として、約80名の日本海軍の貴重な人命が、欧州戦線(地中海)で失われたことは、日本人の間でも、余り知られていないのではないでしょうか。
当時、日本は、日英同盟に基づき英国からの要請で参戦し、ドイツが租借していた青島と膠州を攻略し、更には、ドイツの植民地であった南洋諸島の一部を占領しました。一方、日本は、度重なる英国他からの欧州への陸軍派遣の要請に対しては応じず、海軍の戦闘への参加要請についても断わり続けました。しかしながら、最終的には、1917年に至って、インド洋と地中海での連合国の輸送活動護衛のために、海軍特務艦隊の派遣を行うこととしました。地中海での任務は、アレキサンドリアからマルセイユに艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛でした。その際、不幸にも、駆逐艦「榊」が、オーストリア・ハンガリー帝国の潜水艦の攻撃を受け大破し、59名が戦死したのです。他の戦闘を合わせて、地中海での日本軍将兵の戦死は78名に及びます。日本は、正に、欧州で欧州と共に戦ったのです。
なお、これらの日本海軍の戦死者は、マルタ共和国にあるイギリス連邦墓地の一角に戦後建てられた墓碑に祀られているということです(注)。私も、機会があれば、是非一度行って見たいと思います。
(注)以上の日本海軍の活動については、Wikipedia「第一次世界大戦下の日本」から引用しました。
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