第23回 ピオット博士と野口英世アフリカ賞
2013年7月12日
 先週の初め、ブリュッセル市内のグラン・プラスと呼ばれる中央広場で、ベルギー最大の周年文化行事と言われる「オメガング」が開催され、あいにくの雨天にもかかわらず、大変な人出で賑わいました。この行事は、16世紀初めに神聖ローマ帝国のカール大帝がブリュッセルを訪問した時の歓迎パレードを再現した「時代祭り」で、ブリュッセルの旗を先頭に、楽隊、貴族・諸侯、騎士、ギルド職人などに扮した1400人以上の人々が行進するものです。中世が現代に甦ったような豪華絢爛さがあり、観光客にも人気です。日本でもテレビの旅番組などで良く紹介されていますので、実際に見た人は少なくともこの行事のことを知る日本人は多いのではないでしょうか。「オメガング」が現在の形式で始まったのは16世紀の半ばからと言われていますが、更にその起源を辿ると14世紀半ばにブリュッセル市内サブロン広場の聖母教会で始まった巡礼行事まで遡れるそうですから、まあ驚くほど古い歴史行事ですね。「オメガング」という名前は古フラマン語の「オメ(回って)」と「ガング(歩く)」の2語を合成したものだそうで、「ぐるぐると練り歩くこと」を意味します。21世紀の「オメガング」は青年団による竹馬の一騎打ちや巨大人形パレードが行われ、有名なバンシュ市の「ジル(道化師)」も登場して、最後は盛大に花火を打ち上げて終わるという一大観光行事になっているようです。
<ピオット博士の「野口英世アフリカ賞」受賞記念の夕食会>
今週の初め、今年度の「野口英世アフリカ賞」を受賞されたロンドン大学熱帯医学研究所のピーター・ピオット所長を主賓とする夕食会を大使公邸で開催し、所長と所縁のあるベルギー各界の方々らをお招きしました。ピオット博士は私と同じ1949年の生まれで、アントワープ大学で博士の学位を取得した後、若き日にアフリカに亘りエボラ出血熱の病原菌を発見した他、エイズの問題に取り組み、多年にわたり研究やフィールドワークを展開しました。その後、国連機関で感染症を扱う要職に就き、3年ほど前からロンドン大学で熱帯医学研究所の所長を務めています。日本との関係も深く、30回くらい訪日した経験があり、新橋のガード下の屋台で一杯やるのが楽しみなのだそうです。先月1日に横浜で行われた授賞式では、天皇皇后両陛下がご臨席する中、安倍総理から賞を受けたとのことで、その時の感激は一生の思い出であると語ってくれました。「野口英世賞」は5年前に日本政府によって設けられ、5年に一度、熱帯医学・感染症の分野で顕著な功績を挙げた方お二人(アフリカ人、非アフリカ人各1人)を顕彰し、それぞれ賞金1億円が授与されています。野口英世博士(1876~1928年)については、日本人で知らない人はおらず、千円札紙幣に肖像が使われているほどの偉人ですが、外国では感染症の専門家を除けば知名度は必ずしも高いとは言えません。この日の夕食会で、私は、ピオット博士の功績を讃えるとともに、野口英世という近代日本が輩出した偉人について各参加者に紹介しました。こういう形で日本とベルギーが繋がってくれたことは大使として大変嬉しいことです。
<ルーヴァン市で面会した2人の政治家>
先月、ブリュッセルの東30kmほどのところにあるルーヴァン市を訪れ、フラームス・ブラバント州のロデウェイク・デ・ウィッテ知事を表敬しました。知事は1995年のブラバント州の分離によってフラームス・ブラバント州(オランダ語圏)が誕生した当初から今日まで18年半の長期に亘って現職にあり、知事在任の最長記録を更新しつつあります。フラームス・ブラバント州はブリュッセル首都圏を取り巻くような地形、言い換えればフラームス・ブラバント州の中にブリュッセル首都圏がまるで陸の孤島のように位置する地形をしており、首都で働く人々のベッドタウン化しつつあります。そのため、ブリュッセルにつながる主要道路は朝夕の交通渋滞がひどく、また外国人の居住者の数も増加の一途を辿っているようです。ウィッテ知事も交通問題の解決が焦眉の急であると語っておりました。
その1週間後、今度はトバック・ルーヴァン市長と懇談しました。市長もウィッテ州知事と同じく1995年から現職にあり、歴史都市であるルーヴァン市の近代化に手腕を発揮して来ました。中央駅の駅舎を超モダンな建物に全面改築した他、5年前には15世紀半ばに創建された古い市庁舎を出て、これまた全面ガラス張の7階建ての新庁舎に移転しています。ルーヴァン市の人口は94300人ですが、ルーヴァン・カトリック大学(KUL)などを擁する大学都市でもあるため、平日の日中は数万人の大学生が市の人口に加わることになります。国際的な研究組織であるIMEC(「よもやま話」第20回ご参照)のほか、郊外には大きな工業団地があり、テルモ・ヨーロッパやGCヨーロッパといった日本企業も操業しています。ルーヴァン市は中世の街並みと近未来建築が共存する不思議な空間を創り出しており、限りない魅力にあふれています。
<ベルギー経済を支える2つの港>
先週、ベルギーの北西の端にあるゼーブリュージュ港を視察しました。港湾局のクーンス局長の説明によれば、この港は深さが17~18mある深水港で、大型船によるコンテナ・カーゴ輸送に適しており、欧州のハブとして自動車の輸出入の需要も多い(年間170万台)とのことでした。実際、トヨタや三菱自動車など日本の各自動車メーカーによる利用が進んでおり、車関係の35%が日本車だそうです。また、港湾敷地内にはブリヂストンのタイヤ保管施設やAGCガラス・ヨーロッパ(旭硝子系列)の工場、近隣にもダイキン・ヨーロッパ社の工場などがあるため、港湾局にとって日本企業は重要な顧客のようです。ゼーブリュージュ港は1905年に開港された比較的新しい港ですが、日本の博多港と長年に亘る姉妹関係にあり、更に、今月は名古屋港とも姉妹提携する予定とのことです。日本との関わりは今後ますます強まりそうですね。
ベルギー最大の港であるアントワープ港については、これより前の4月末に訪問しておりました。港湾公社の方の説明では、港の面積は13000ヘクタール以上もあり、実に広大なのですが、更に拡張可能な敷地が1000ヘクタール以上あるとの説明に驚きました。港を一望すると、世界最大手の化学企業の工場が林立しており、延々と続く倉庫群にも圧倒されます。コンテナの取り扱い能力は年間15百万TEUあり、昨年の貨物の取り扱い総量は184百万トンで、ロッテルダム港に次いで欧州第2位だそうです。アントワープ港の特徴は巨大な入り江のような地理的条件にあり、内陸にかなり入り込んでいるために、フランス、ドイツ、オランダなどの主要都市へのアクセスが非常に良いことです。日本との関係では、主要な海運会社の全てが同港を利用しており、敷地内に工場や倉庫を持っている企業も少なくありません。また、名古屋港とは既に姉妹関係にあり、今年の8月末に25周年の祝賀行事が予定されているそうです。アントワープ港に関わる経済活動はベルギーのGDPの5%を生み出しているとの説明には少々驚きました。
<世界最大のビール会社>
先週、先述したルーヴァン市を訪れ、同市に拠点を置く世界最大のビール・メーカーである「エイビー・インベブ」社を訪問しました。この会社の世界シェアは今や25%以上と言われており、世界中どこでもビールの生産が行われている現在、このシェアの高さは驚異的です。ところが、この事実を知るベルギー人は意外と少ないのです。何故余り知られていないのかというと、スポーツの世界に例えれば、無名選手がいきなり世界チャンピオンになるような現象が過去四半世紀の間に起ったからです。今から26年前の1987年に「ステラ・アルトワ」というビールを生産していたベルギーの会社が、同じ国内企業で「ジュピレ」というビールを生産していたピエブフ社と合併して「インターブリュ」という新会社を設立したのが事の始まりです。この会社は、2004年にブラジルのアンベブ社と合併して「インベブ社」となり、更に2008年と2013年に相次いで米国とメキシコの巨大ビール・メーカーを買収し、あっと言う間に総資産1124億ドル、従業員数12万人という巨大な企業に成長したのです。ベルギーにおける最初のビール醸造所と言われるアルトワ社が創業したのは14世紀の中頃と言われていますが、その小さな会社が650年の歳月を経て世界一のビール・メーカーになろうとは誰が想像したでしょうか・・・。
<ハッセルト市の日本庭園>
ベルギーにはヨーロッパでも有数の日本庭園があります。所在地はリンブルグ州の州都ハッセルト市(「よもやま話」第16回参照)。郊外の森の入り口で車を降り朱色の鳥居をくぐると、総面積25000㎡の庭園が広がり、鯉の泳ぐ池、滝、丸木橋、吾妻屋と茶室、桜の木と何でも揃っています。日本にいるのではないかという錯覚を起こしそうなこの庭園は、1992年に伊丹市の技術協力によって完成、昨年は竣工20周年を祝っています。ハッセルト市と伊丹市は1985年に姉妹提携しており、その5周年目にJR伊丹駅前広場にカリヨンの塔(フランドルの鐘)が寄贈されたことへの答礼として造園されたようです。ハッセルト市は毎年この庭園を舞台にさまざまな文化イベントを開催しており、市民の憩いの場にもなっています。3年前にはこの日本庭園を紹介する160ページほどの本が出来上がり、写真が多く掲載されているため、市の名所の手ごろな紹介本として大いに活用されているようです。私が訪れたのは去る4月の下旬で、桜も見ごろを過ぎておりましたが、それでも遅咲きの桜が残っており、美しい佇まいを見せておりました。姉妹都市関係もここまでくると見事というしかありませんね・・・。
|