大使のよもやま話

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第26回 2つの「うたかたの恋」

2013年8月9日

    今から50年以上も昔のこと、ベルギーに駐在する日本大使に二十をわずかに過ぎたばかりの美しい令嬢がおりました。彼女は時々父親に連れられて外交団などのパーテイに出席したり、大使公邸で晩さん会などを催した時には賓客の出迎えなども手伝い、次第に社交界でその美貌が広く知られるようになりました。ある時、ベルギー第一の名門大学の博士課程で勉強するベルギー青年に見初められ、二人はひそかに交際を始めます。一緒に食事をしたり、映画を見たり、楽しい日々を過ごしました。ところが、交際を始めて未だ日が浅い折に、当の日本大使に帰国の命令が出され、日本に戻ることになってしまいます。件(くだん)の令嬢も両親とともにベルギーを離れなければなりません。若い二人はお互いに思いを寄せ合いながらも決断の言葉を口に出すことが出来ず、永久(とわ)に別れ別れになってしまいます。その後、月日がたって、このベルギー青年は政治家の道を歩み、若くして首相の地位に上り詰めます。彼は、首相在任中、日本政府からの招待を受けて日本を公式訪問し、昭和天皇にも拝謁するのですが、かつての大使令嬢と再会することはありませんでした。今、自分より20歳近くも若い日本大使に出会い、「あなたにはお嬢さんはおりますか?」と尋ねる心境はいかばかりか、私には知る由もありません。さてさて、このお話は、どこにでもある「うたかたの恋」の物語で、夏の夜長の時間つぶし、つまり私の創作です。くれぐれも、該当する人物を特定しようなどと思わないでください。

<故ボードワン国王の20周忌>

yomoyama_026_king    先月の31日、ブリュッセル市内のサン・ミッシェル大聖堂で、1993年のこの日に崩御された故ボードワン国王を追悼する宗教行事が行われました。ボードワン国王は1951年に20歳の若さで第5代国王として即位され、42年間に亘って在位されました。ベルギー国民に敬愛された国王で、62歳の時に心不全により突然崩御された時は国全体が深い悲しみにくれたと伝えられています。私個人も1976~78年の2年間、若い外交官としてベルギーに在勤しておりましたので、ボードワン国王の颯爽としたお姿は良く覚えています。この日の追悼行事には御高齢になられたファビオラ元王妃を先頭に、フィリップ国王同妃両陛下、アルベール2世前国王同妃両陛下ら王室の方々が揃って参列されており、私も外交団の一員として1時間20分に亘る行事に列席し、過ぎし日々のことを思い出しておりました。ボードワン国王は5歳の誕生日を迎える前に母親であるアストリッド元王妃が自動車事故で亡くなられ、自身が国王に即位した際には父親であるレオポルド3世が第二次世界大戦中のナチスとの関係をめぐって国民の轟轟たる非難を受けて退位を余儀なくされるという状況下であったことから常に悲劇性がつきまとい、「笑顔を見せない国王」と言われた時期もあったようです。私は、この同じ日に、たまたまボードワン基金の幹部のお一人とお会いして昔話をしたのですが、1976年に設けられたこの基金が今日も故国王の遺志を継いでさまざまな社会貢献活動を続けていることを知り心が慰められる思いがしました。

<アールスト市と武庫川女子大学>

yomoyama_026_aalst    先日、アールスト市(ブリュッセルの西29km;人口8万人)を再び訪れ、クリストフ・ダーズ市長にお会いしました。市長は「新フランドル同盟(N-VA)」所属の政治家で今年の1月に現職に就任したばかりですが、それまでの6年間、同市の市議会議長を務めており、地元の事情には大変精通した方です。アールスト市と言えば毎年早春に開催されるカーニヴァルが有名であり、時局を皮肉った仮装行列がベルギー中の話題になります。市長によれば、パレードへの参加者は6千人近いそうで、「雨が降ろうが槍が降ろうがこの祭りだけは絶対にやる」というのが市の伝統になっているとのことでした(私は、早速、来年3月2日に予定される次回のカーニヴァルに招待されました)。また、この街には心臓病を専門にする2大病院があり、ベルギー国内は勿論、世界中から心臓疾患をかかえた有名人が集まって来るということです。アルベール2世前国王もかつてここの病院で治療を受けたことがあるようです。我々日本人にとってアールスト市は1962年にホンダ技研工業が初めての海外工場(現在も大型部品の梱包センターとして存続)を開設した場所として知られていますね(「よもやま話」第5回ご参照)。別れ際に市長から市の「黄金帳」(来賓記帳簿)に記帳して欲しいと求められ、帳簿を見ると昨年12月のページに「武庫川女子大学コーラス・グループ一同」という署名がありました。この大学は兵庫県西宮市に本部がある大学で、声楽家の益子務先生が団長になって当地を訪れたようです。日本とベルギーの交流がさまざまなところで行われていることに驚きます。

<2つの企業訪問>

yomoyama_026_ecoplast    先月、ベルギーと日本の企業各1社を訪問しました。最初に訪ねたのはシャルルロワ市(ブリュッセルの南60km)の郊外にある「エコプラスト・テクノロジー」という従業員45人、年間売上が約10億円(7.5百万ユーロ)という小さなベルギー企業です。この会社が設立されたのは1985年だそうですから創業28年という発展途上の企業なのですが、自動車のバンパーなどのプラスチック部品を製造し、世界各国に輸出しているようです。顧客の中にはホンダやニッサンなど日本の大手自動車会社も含まれており、特別仕様車向けの高級部品を少量生産するというニッチなビジネスを展開しています。ゴンセット社長の案内で工場内を見学させてもらったのですが、木製の鋳型にプラスチック樹脂を流し込んで、1つひとつ丁寧に作っており、まるで家内制手工業のような製造工程に驚きました。こうしたビジネスを展開する企業は世界にも例があまりないようで、ゴンセット社長は「ライバル企業は存在しません」と大笑しておりました。
yomoyama_026_shokubai    次に、先月末に訪問したのがアントワープ近郊に工場を有する「日本触媒ヨーロッパ」という日本企業です。親会社である「日本触媒」は川崎市や姫路市に工場を有する化学業界の大手(1941年設立;従業員3400人)で、アントワープ工場はヨーロッパで唯一の子会社として1999年に設立されています。現在の従業員数は95人(昼夜4交代、年中無休)で、高吸水性樹脂(SAP)と呼ばれる化学品を年間6万トンほど生産しています。日本触媒はこの製品を日本を含む世界各地の工場で合計56万トンほど生産し、世界一のシェア(25%以上)を誇っているようです。製品用途は主に紙オムツやペットシーツなどの原料です。私は、工場見学の初めに、同工場で生産されているSAPの吸水実験を見せてもらったのですが、ほんの一つまみの白い粉末が1ℓの水をあっという間に吸収し、1ℓの白い粉に変化する様子に驚きました。1つの紙オムツを作るのに10gのSAPがあれば十分との説明に、化学品のすばらしさを感じました。

<ベルギー王室を襲った不幸>

    ベルギー王室の歴史は1831年から未だ182年間に過ぎませんが、この間、王室を襲ったいくつかの不幸な出来事がありました。その最大のものは1934年に起った第3代国王アルベール1世の遭難死ではないでしょうか。デイナン(ブリュッセルの南70km)の近郊で登山の最中に転落、58歳という若すぎる崩御でした。第一次世界大戦時にベルギーを通過してフランスに攻め入ろうというドイツ軍に対して「ベルギーは道ではなく国だ」と怒り、最後まで抵抗を続けた強い信念は今でもベルギーの人々の語り草になっています。もう一つ、ベルギー人を悲しませた出来事は、第4代国王レオポルド3世の御妃であったアストリッド王妃の交通事故死(1935年)に違いありません。慎ましやかなお人柄でベルギー国民に敬愛された王妃だったようです。20歳で結婚し、1女2男の母となり、29歳で亡くなられた人生は誠に儚く思われます。1年間だけの王妃でしたが、2人の男児は成長して共に国王になり、その次男の長子はこのほど第7代国王に即位しています。
    更に、ベルギー王室の歴史を遡ると、初代国王レオポルド1世の王女シャルロットの波乱の人生や第2代国王レオポルド2世の王太子レオポルド(10歳)の病死そして第2王女ステファニーの結婚生活の破綻(19世紀末に起ったオーストリア・ハンガリー帝国皇太子の心中事件である「うたかたの恋(マイヤーリング)」の物語に直接かかわるのですが、詳細は次回の「よもやま話」でご紹介します)など既に映画や小説になっているような不幸な出来事を見出すことが出来ます。ただ、ベルギー王室にとっての大きな災難は、2度に亘る世界大戦において、初代国王の出身地であったドイツから侵略を受けたことではないでしょうか。第3代国王の妃であったエリザベート王妃もドイツの出身であり、第1次大戦の折は傷病兵の看護に熱心に取り組む姿から「白衣の王妃」とも呼ばれ、第2次大戦の折はユダヤ人収容所から子供を救い出す活動を展開したようです。そして、第2次大戦後、戦争中のレオポルド3世の(ナチス寄りの)身の処し方が国民への裏切り行為であるとして国家騒動が発生し、国王が半ば強制的に退位させられるという「事件」が1951年に起こります。この「事件」はベルギー内戦の危機を招いた忌まわしい出来事として今でも年配のベルギー人の心の奥に焼き付いているようです。

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