第31回 北岡教授の語る東アジアの安全保障
先週の日曜日はブリュッセルの「ノーカーデー」、つまり街全体が「歩行者天国(自転車天国?)」になる日で、タクシーやバスなどの公共交通機関を除くと街から走行車両が消えてしまいました。勿論、仕事などの関係でどうしても車を利用する必要がある場合は、事前に許可を得ることは可能なようですが、実際には主要な道路から車の姿は見事なほど消えてなくなりました(写真)。おかげで、私はブリュッセルに来てから初めて路面電車(トラム)というものに乗り、これはこれで結構便利なものだと感じ入りました。特に、この日は公共交通機関の料金が全て無料ということで、行かなくても良いところまでグルグルと乗り回ってみました。ブリュッセルの路面電車は、一部区間のみ専用車線になっており停車駅にはプラットホームらしきものがあるのですが、大半は一般道路の中央に線路がありラッシュ時には多くの車に前後左右を囲まれるようにして走っています。赤信号で停車するのも普通の車と同じです。チケットは専用の「売り場」はなく、電車が停車する場所の近くに小さな券売機があって、銀行カードでのみ購入することが可能な仕組みになっています。私が驚いたのは、停車場所に時刻表が掲示されているものの、日曜日の欄は「時刻指定なし」とだけ記載されていて、事実上適宜走っているような状況になっていることです。また、私が乗った路面電車がある信号で停車していたら運転手が下りてしまい、暫くしてから交代要員の運転手が乗り込んで来たのです。この間、信号は何回か赤と青を繰り返していましたが、乗客はこれを当然のこととして特段の反応を示しません。まあ、東京では考えられないことばかりの一日でした。
<ベルギーを訪問した日本の政治学者>
 先週、我が国を代表する政治学者の一人である北岡伸一国際大学学長・政策研究大学院大学教授がベルギーを訪問され、「東アジアの安全保障状況と日本の防衛政策」を中心テーマに、ブリュッセル自由大学(ULB)など何か所かで講演をされました。不安定な東アジア情勢の今後の成り行きや安倍政権の新たな安全保障政策に対するベルギー人の関心は高く、学生を中心とした聴衆は会場に溢れ返り、立ち見が出るほどの盛況でした。ルーヴァン・カトリック大学(KUL)での講演では、中国や韓国との領土に関わる問題や、いわゆる「歴史」や「慰安婦」の問題などについて、学者・歴史研究者の立場から明快な説明をされ、大変好評でした。この他、NATOやEUの関係者とも幅広く意見交換の機会を持たれましたので、短期の滞在ながら大変忙しい日程をこなされました。現在、北岡先生は、安倍政権の下に設けられた安全保障や防衛問題に関する懇談会の中心人物ですので、大変タイムリーな当地訪問でした。私は、2004年から2006年にかけて北岡先生が国連の次席大使を務められていた時に、国連の安全保障理事会の改革問題をめぐって一緒に仕事をした経験があり、今回は懐かしい再会になりました。私も、大使として講演をする機会はあるのですが、立場上、言えないことも少なくありません。しかし、今回の北岡先生のように、民間の学者の立場から比較的率直にお話をしていただけるのはとても有意義だったように思います。
<ワロニー・ブリュッセル連合祭とモンス市の式典>
先週、5日間に亘り、ベルギーのフランス語圏で「ワロニー・ブリュッセル連合祭」という文化イベントが開催されました。その中でも9月27日は1830年のこの日にオランダ軍を撃退しベルギーの独立を確固たるものにした記念日ということで、ブリュッセルの中心地グランプラスでの音楽祭をはじめ各地で各種の行事が行われたようです。私は、公式行事の1つであるモンス市(ブリュッセルの南60km)での式典に招待され、市庁舎でのレセプションでディ=ルポ首相をはじめとするベルギー政界の要人多数に御挨拶する機会を得ました。首相は公式にはモンス市長でもあることからこのレセプションの主催者として開会のスピーチをされましたが、国連総会に出席して帰国したばかりとのことで少々お疲れの様子でした。私との立ち話では、アベノミックスの成果など日本の経済状況についてお尋ねがありました。また、このレセプションには主賓としてセネガルの国会議長が招待されており、期せずして日本とアフリカの関係についてしばし懇談することが出来ました。エノー州のルクレルク州知事との会話では州知事から前回お会いした時に私からプレゼントした日本酒が大変おいしかったとの話がありました。「ワロニー・ブリュッセル連合」というのは法律にもとづく組織ではなく、フランス語圏の議員団を核にして結成された連絡組織のようです。ブリュッセル住民の8割はフランス語系の人々と言われており、これらの人々とベルギー南部のワロン地域(フランス語圏)の人々を結びつけるのが「ワロニー・ブリュッセル連合」なのです。ベルギーの言語事情はなかなか複雑ですね・・・。
<ブリュッセルで聞いたフランス語の落語>
ちょうど1週間前、日本からプロの落語家が来て、ブリュッセル市内の大学で落語の口演(公演ではなく「口演」です)をしてくれました。この落語家は三遊亭竜楽という師匠(真打)で、何とフランス語で口演されたのです。3つほどの小噺を身振り手振り豊かに演じられて、会場にかけつけた大勢の客は大喜びでした。落語の面白味は軽妙な語り口にあるので通訳付きというのは有り得ず、電子パネルに同時通訳のように字幕を表示するやり方もいまいちです。その点、たとえ流暢ではなくても現地の言葉で語ると話の面白さが直接的に伝わり、大きな笑いをとることが出来ます。師匠は5年ほど前からドイツ語やイタリア語など6つの外国語で口演して来ているとのことで、日本で唯一人の多言語落語家ですね。興味深いのは、これだけ多言語で落語の口演が出来るのに、日常会話は全く出来ないとのことです。つまり、小噺をそれぞれの外国語で丸暗記してしまった上に、それを観客に全く感じさせないで面白おかしく演じられるという才能がおありなのです。外国人に言わせると「日本人にはユーモアのセンスが欠けている」ということのようなのですが、古典落語に見られる絶妙な「笑い」は正に芸術であり、このことを一人でも多くの外国人に知ってもらいたいと思います。竜楽師匠、有難うございました。
<ベルギーの修道院>
ベルギーには観光の名所となっているお城や教会建築が実に多いのですが、古い修道院Abbeyも国内各地に点在しており、その中には一見の価値があるものも少なくありません。ユネスコの世界遺産にも指定されている「ベギナージュ」と呼ばれる女子修道院はその代表格で、ベルギー北部のフランドル地方(オランダ語圏)の主要都市周辺に所在する「ベギナージュ」は多くの観光客を集めています。私が最近興味を持ったのがシトー会系の修道院で、こちらは南部ワロン地域(フランス語圏)にいくつか所在しています。「シトー会」はご存じのとおり、11世紀末に「ベネディクト会」から分離独立した修道院で、フランスのブルゴーニュ地方を中心に北フランスで主たる活動を展開しました。12世紀に聖ベルナールの指導の下で大発展したことから「ベルナルド会」という別称もあるようです。こうした北フランスでの宗教運動はベルギーにも広がり、同じ12世紀にはヴィレ・ラ・ヴィルの町(ブリュッセルの南50km)に大変立派なシトー会の修道院が創建されています。残念ながら19世紀初めのフランス革命期に破壊され、今日、私たちが見るものはその廃墟(写真)に過ぎません。先日、この修道院址を訪ねたのですが、廃墟なりの趣があり、結構感動しました。特に戒律が厳しかったシトー会の一派である「厳律シトー会」は「トラピスト会」の名称でも知られているのですが、この修道院でビールが製造販売されたことから、「トラピスト・ビール」という銘柄まで生まれています。この銘柄のビールは日本でも結構売れているようですね。
<日本に骨を埋めたベルギー外交官>
明治期、日本に17年間の長きに亘り在勤したベルギーの外交官がいました。その人の名前はアルベール・ダネタン男爵。1883年から1910年まで特命全権公使を務められました。日本とベルギーの間に大使の交換が行われるようになったのは1921年からですので、ダネタン公使は在日ベルギー公使館の館長だったのです。1904年からは外交団長も務めたようですから当時の日本政府との接触も頻繁だったろうと想像されます。おりしも日本が日清・日露の2つの大戦を経た時代ですので、外交官としても役目は重大だったに違いありません。しかし、1910年7月、ダネタン公使は病に倒れ、東京で亡くなります。その墓地は東京の雑司ヶ谷にありますので、今も日本の来し方、行く末を見守ってくれているのではないでしょうか。
なお、ベルギーにはもう一人、戦前の日本に長期在勤した外交官がいます。アルベール・ド・バソンピエール大使がその人です。バソンピエール大使の場合は、ダネタン公使より更に長く、1920年から1939年までの約18年間も東京に在勤しています。大使は、1923年の関東大震災に遭遇し、被災者の救援活動にも従事したようです。また、日本の軍国主義が深まる中、原敬首相の暗殺(1921年)、満州建国(1932年)、5・15事件(1932年)、2・26事件(1936年)などの重大事が相次ぎ、正に動乱の時代を東京で生きた外交官です。日本をこよなく愛したバソンピエール大使は失意の中で日本を去ったと伝えられています。現在、同大使の曾孫が在京ベルギー大使館の公使を務めており、歴史が繋がっているのを感じますね。
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